スーツケースの中の少年 / レナ・コバブール&アニタ・フリース
Drengen i kufferten : The Boy in the Suitcase / Lene Kaaberbol & Agnete Friis (2011)


2013年/土屋京子訳/講談社
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(初出:未発表)

 

 

グローバリゼーションのなかで変貌するヨーロッパ
それぞれに追い詰められ、自己と向き合う女たち

 

 ともにデンマーク出身のレナ・コバブール&アニタ・フリースの共著『スーツケースの中の少年』(11)では、デンマークのコペンハーゲンとリトアニアのヴィリニュスを主な舞台として、複数の登場人物の物語が交錯していく。

 主人公は、コペンハーゲンの赤十字センターに置かれた保護施設「エレンズ・ハウス」で働く看護師ニーナ・ボーウ。ある日、疎遠になっていた旧友のカーリンから突然、連絡があり、「あなたにしかできない」と頼み込まれた彼女は、事情もわからないままに駅のコインロッカーに預けられたスーツケースを取りにいく。

 やけに重いスーツケースを人目につかない場所まで運び、開いてみると、そこに入っていたのは、全裸の男の子だった。少年は生きていたが、彼をどうするのかそこで考えている余裕はなかった。コインロッカーで騒ぎが起こり、激怒した男がスーツケースの入っていたロッカーを蹴りつけていたからだ。危険を察知したニーナは、少年を車に乗せその場を後にする。

 リトアニアのヴィリニュスでは、シングルマザーのシギータが病院で意識を取り戻す。めったに酒を飲まないのに、血中からは多量のアルコールが検出され、記憶が飛んでいた。そして、3歳の息子ミカスがいなくなっていることに気づく。さらに最近、息子につきまとっていた見知らぬ女のことを思い出す。

 一方、デンマークでは、富豪のヤン・マルカートが、妻アンネに気づかれないようにチューリッヒに飛び、そこからコペンハーゲンの銀行に送金し、とんぼ返りしてある取引をしようとしていた。だが、飛行機が予想外に遅れ、他に手がないため部下のカーリンに協力を求める。

 ミステリとしては決して複雑な物語ではない。シギータがまだ閉鎖的な故郷で暮らしていた頃に、若くして妊娠し、子供を手放していたことが鍵を握る。だが、この作品の魅力は、必ずしもプロットではない。

 たとえば、シギータの物語では、彼女を取り巻く社会の変化が以下のように綴られている。

シギータの父親は、ロシア人が引き揚げていってからすっかり力を失ってしまった。ソ連時代には缶詰工場の経理係だった。賃金面では生産ラインで働く労働者と大差なかったが、当時は金の力よりコネの力がものを言う社会だった。欲しいものがあるからといって簡単に買えるわけではなく、手を回してもらう必要があった。そして、たいがいの場合、シギータの父親はそういう手配をできる立場にあった。

 しかし、いまでは缶詰工場は閉鎖され、鉄条網のフェンスに囲まれた灰色と黒の廃墟が残っているだけだ。窓ガラスは割れ落ち、コンクリート舗装のすきまから雑草が伸びている。昔のコネは何の役にも立たないどころか、むしろ足を引っ張るだけだった。かわりに、羽振りがよくなったのは、商売のうまい者、金の工面ができる者、組織力のある者だった。闇の経済であろうと、日の当たる経済であろうと

 コバブールとフリースのコンビは、冷戦以後、グローバリゼーションが広がる状況で変化する社会を描き出していく。そこでは、様々な国の人間が行き交い、異なる言葉が飛び交う。

 主人公のニーナが働く保護施設の様子は、以下のように描かれている。

「エレンズ・ハウス」の外に広がる黄ばんだ芝生と白いベンチに太陽の光が降り注ぐ。Aブロックの子どもたちが何人かでサッカーをしている。一方のチームはウルドゥー語で叫び、もう一方のチームは大半がルーマニア語でわめいているが、それでもお互いに通じ合っているらしい

 ニーナの物語は、この赤十字センターに男が現れ、フィアンセに会わせろと毒づくところから始まる。そのフィアンセとは24歳のウクライナ人ナターシャだ。彼女は婚約によって6歳の娘リナとずっとデンマークにいられることを喜んだが、男の虐待に耐えられずにセンターにやって来た。ニーナと他のスタッフはなんとか男を追い返そうとするが、彼がリナを手なずけているため、ナターシャは男に従うしかなかった。このエピソードは本筋と絡むわけではないが、記憶しておいても損はない。なぜなら、シリーズ第2弾『Invisible Murder』で、再び彼らが登場してくるからだ。

 そしてもちろん、軸となる物語でも、言葉や文化の違いが様々なかたちで浮かび上がってくる。ニーナは、少年が話す言葉がわからないため、なかなか手がかりを得られない。追い詰められた彼女は、娼婦たちに協力を求める。彼女たちは、ラトビアやリトアニアなど様々な国々から来ているからだ。

 また、社会や文化の違いで面白かったのが、ニーナを追い詰めていくリトアニア人ユツァスの視点だ。彼はコペンハーゲンを車で走りながら、こんなふうに思う。

ユツァスは右折のウィンカーを出したが、もちろん、次から次へと交差点を渡っていく果てしない自転車の群れが通り過ぎるのをじりじりと待つしかなかった。いったい、この国の人間どもはどうなっているのだ? 車を買う金がないのか? 人口の半分が自転車にまたがってフラフラ走り回っては交通の邪魔をしやがる

 これはエネルギー政策の違いをめぐる皮肉なユーモアともいえる。


 
 
◆おもな登場人物◆
 
ニーナ・ボーウ   「エレンズ・ハウス」の看護師
モーテン・ボーウ ニーナの夫
イーダ ニーナの娘、13歳
アントン ニーナの息子、7歳
ヤン・マルカート デンマーク人の富豪
アンネ・マルカート ヤンの妻
アレクサンダー ヤンの息子
ユツァス リトアニア人
バルバラ ユツァスの9歳年上の恋人
シギータ リトアニア人のシングルマザー
ミカス シギータの息子、3歳
ダリウス 別居中のシギータの夫
ジョリータ シギータの伯母
アルギルダス シギータの上司
ドブロボルスキー アルギルダスの取引先、地元の大物
ナターシャ 「エレンズ・ハウス」の患者、24歳
リナ ナターシャの娘、6歳
マウヌス ニーナの同僚
アラン 不法就労者も診察する開業医
カーリン ニーナの15年来の友人
マゼキエネ夫人 シギータの隣人
グージャス刑事 行方不明者捜査課の刑事
ユリヤ・バロニエネ 看護師

◆著者プロフィール◆

レナ・コバブール&アニタ・フリース
Lene Kaaberbolは1960年、Agnete Friisは1974年、ともにデンマーク生まれ。それぞれファンタジーと児童文学の作家として活躍し、共著としてのデビュー作が本書にあたる。本作で『ミレニアム』とスカンジナビアン・グラスキー賞を争い、バリー賞にもノミネート、2008年ハラルド・モゲンセン賞ベストクライムノベル賞などを受賞した。またニューヨークタイムズ・ベストセラーになる。次回作に同じニーナ・ボーウを主人公とした『Invisible Murder』がある。

 
 

 そして、このミステリのもうひとつの魅力が、女性のキャラクターに向けられた視点だ。かつて仕方なく子供を手放し、いままた息子のミカスを奪われた母親シギータの決意、愛情よりも家名を求めて結婚し、個人的な秘密を抱えている夫ヤンに対する妻アンネの感情、これまでハニートラップで男たちを罠にはめ、いまはユツァスと行動をともにしているポーランド人のバルバラの心の揺れ。そうした要素が終盤に絡み合うことになる。

 主人公のニーナは、そんな女性のキャラクターのなかでも異彩を放っている。彼女は、ボーリング調査を仕事にする夫モーテン、13歳の長女イーダ、七歳の長男アントンと生活している。しかし、過去には生後間もないイーダと夫を残して、ボランティアとして海外の紛争地帯に飛び出してしまったことがある。彼女は世界の不条理を目にすると、自分を抑えることができない。その衝動は病的なレベルに達しているともいえる。しかも、情熱だけではなく、実際に現場で能力も発揮してきた。

ニーナと一緒に世界各地の紛争地帯で働いてきた同僚ボランティアたちから、モーテンはときどき話を聞く機会があった。同僚たちはニーナを絶賛した。最悪の局面でも、ニーナは超人的な冷静さで能力を発揮する、と誰もが口を揃えて褒めた。川にかかる橋が流されたとき、火炎瓶が飛んできて医療用テントが炎上したとき、地雷で手足を吹き飛ばされた患者が運び込まれてきたとき、いつも頼りになるのはニーナなのだ、と。ニーナは女性ながらたった一人で世界を救うためにたいへんな働きをしているのだ、と。ニーナをこんなに惨めで無力な状態にしてしまうのは家族だけだ、と

 そんなニーナは、いまでは赤十字センターを職場として落ち着いている。だが、グローバリゼーションの世界では、彼女の身近な場所で国境をまたぐ問題が起こる。ちなみに、彼女は、難民や移民に関する政府の方針に対しては一貫して批判的で、難民が強制的に国外追放されたり家族が引き裂かれたりするニュースが流れると、衝動を抑えるのに苦労する。

 このシリーズでは、ニーナがそんな問題を自身で引き受けざるをえない状況に追い込まれながらも、いかに家族と折り合いをつけていくのかが、ポイントになっている。

《引用文献》
『スーツケースの中の少年』 レナ・コバブール&アニタ・フリース●
土屋京子訳(講談社、2013年)

(upload:2014/03/12)
 
 
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