ともにデンマーク出身のレナ・コバブール&アニタ・フリースの共著『スーツケースの中の少年』(11)では、デンマークのコペンハーゲンとリトアニアのヴィリニュスを主な舞台として、複数の登場人物の物語が交錯していく。
主人公は、コペンハーゲンの赤十字センターに置かれた保護施設「エレンズ・ハウス」で働く看護師ニーナ・ボーウ。ある日、疎遠になっていた旧友のカーリンから突然、連絡があり、「あなたにしかできない」と頼み込まれた彼女は、事情もわからないままに駅のコインロッカーに預けられたスーツケースを取りにいく。
やけに重いスーツケースを人目につかない場所まで運び、開いてみると、そこに入っていたのは、全裸の男の子だった。少年は生きていたが、彼をどうするのかそこで考えている余裕はなかった。コインロッカーで騒ぎが起こり、激怒した男がスーツケースの入っていたロッカーを蹴りつけていたからだ。危険を察知したニーナは、少年を車に乗せその場を後にする。
リトアニアのヴィリニュスでは、シングルマザーのシギータが病院で意識を取り戻す。めったに酒を飲まないのに、血中からは多量のアルコールが検出され、記憶が飛んでいた。そして、3歳の息子ミカスがいなくなっていることに気づく。さらに最近、息子につきまとっていた見知らぬ女のことを思い出す。
一方、デンマークでは、富豪のヤン・マルカートが、妻アンネに気づかれないようにチューリッヒに飛び、そこからコペンハーゲンの銀行に送金し、とんぼ返りしてある取引をしようとしていた。だが、飛行機が予想外に遅れ、他に手がないため部下のカーリンに協力を求める。
ミステリとしては決して複雑な物語ではない。シギータがまだ閉鎖的な故郷で暮らしていた頃に、若くして妊娠し、子供を手放していたことが鍵を握る。だが、この作品の魅力は、必ずしもプロットではない。
たとえば、シギータの物語では、彼女を取り巻く社会の変化が以下のように綴られている。
「シギータの父親は、ロシア人が引き揚げていってからすっかり力を失ってしまった。ソ連時代には缶詰工場の経理係だった。賃金面では生産ラインで働く労働者と大差なかったが、当時は金の力よりコネの力がものを言う社会だった。欲しいものがあるからといって簡単に買えるわけではなく、手を回してもらう必要があった。そして、たいがいの場合、シギータの父親はそういう手配をできる立場にあった。
しかし、いまでは缶詰工場は閉鎖され、鉄条網のフェンスに囲まれた灰色と黒の廃墟が残っているだけだ。窓ガラスは割れ落ち、コンクリート舗装のすきまから雑草が伸びている。昔のコネは何の役にも立たないどころか、むしろ足を引っ張るだけだった。かわりに、羽振りがよくなったのは、商売のうまい者、金の工面ができる者、組織力のある者だった。闇の経済であろうと、日の当たる経済であろうと」
コバブールとフリースのコンビは、冷戦以後、グローバリゼーションが広がる状況で変化する社会を描き出していく。そこでは、様々な国の人間が行き交い、異なる言葉が飛び交う。
主人公のニーナが働く保護施設の様子は、以下のように描かれている。
「「エレンズ・ハウス」の外に広がる黄ばんだ芝生と白いベンチに太陽の光が降り注ぐ。Aブロックの子どもたちが何人かでサッカーをしている。一方のチームはウルドゥー語で叫び、もう一方のチームは大半がルーマニア語でわめいているが、それでもお互いに通じ合っているらしい」
ニーナの物語は、この赤十字センターに男が現れ、フィアンセに会わせろと毒づくところから始まる。そのフィアンセとは24歳のウクライナ人ナターシャだ。彼女は婚約によって6歳の娘リナとずっとデンマークにいられることを喜んだが、男の虐待に耐えられずにセンターにやって来た。ニーナと他のスタッフはなんとか男を追い返そうとするが、彼がリナを手なずけているため、ナターシャは男に従うしかなかった。このエピソードは本筋と絡むわけではないが、記憶しておいても損はない。なぜなら、シリーズ第2弾『Invisible Murder』で、再び彼らが登場してくるからだ。
そしてもちろん、軸となる物語でも、言葉や文化の違いが様々なかたちで浮かび上がってくる。ニーナは、少年が話す言葉がわからないため、なかなか手がかりを得られない。追い詰められた彼女は、娼婦たちに協力を求める。彼女たちは、ラトビアやリトアニアなど様々な国々から来ているからだ。
また、社会や文化の違いで面白かったのが、ニーナを追い詰めていくリトアニア人ユツァスの視点だ。彼はコペンハーゲンを車で走りながら、こんなふうに思う。
「ユツァスは右折のウィンカーを出したが、もちろん、次から次へと交差点を渡っていく果てしない自転車の群れが通り過ぎるのをじりじりと待つしかなかった。いったい、この国の人間どもはどうなっているのだ? 車を買う金がないのか? 人口の半分が自転車にまたがってフラフラ走り回っては交通の邪魔をしやがる」
これはエネルギー政策の違いをめぐる皮肉なユーモアともいえる。 |