コーマック・マッカーシーはこの数年の間にずいぶん広く認知されるようになった。まず『すべての美しい馬』、『越境』、『平原の町』という“国境三部作”で、彼の世界に対する間口が広がった。さらに『血と暴力の国』と『ザ・ロード』では、犯罪小説やSFの要素を取り込み、新しい読者を獲得した。『血と暴力の国』を映画化したコーエン兄弟の『ノーカントリー』がヒットしたことももちろん大きい。
『ブラッド・メリディアン』(黒原敏行/早川書房/2009年)は、マッカーシーが1985年に発表した第5長編であり、彼の代表作だ。舞台は19世紀半ばのアメリカ南西部とメキシコ北部。14歳で家出し放浪する少年は、「見境のない暴力への嗜好を」宿し、“頭皮狩り隊”に加わる。彼らは、インディアンを虐殺して剥いだ頭皮で稼ぐばかりか、行く先々で暴虐の限りを尽くし、世界をおぞましい地獄に変えていく。その暴力描写には誰もが息を呑み、圧倒されるに違いない。
だが、マッカーシーは闇雲に暴力を描いているわけではない。それは古代からつづく営みの延長にある。登場人物と読者は、古代人の生の営みの痕跡を垣間見る。「その夜は少し上手にある浅い洞窟で過ごしたが、洞窟の石の床には叩き割った火打石の屑や砂利が散らばりそこに貝殻ビーズや磨かれた骨片や古い焚火の炭が混じっていた」
さらに、虐殺に先立つように、“狩猟”が克明に描き出される。「最初の数日は猟獣も禿鷹以外の鳥も見つからなかった。遠くの地平線上には砂埃の襟巻をして移動する羊や山羊の群れが見えたが一行がようやく食べたのは平原で撃ち殺した野生の騾馬の肉だった。軍曹は鞍につけた鞘に重いウェッソン・ライフルを差していた。擬似銃口と紙パッチを使い椎の実形の弾丸を発射するそのライフルで軍曹は砂漠に棲む小型の臍猪を撃ち、羚羊の群れが見えたときには陽が沈んだばかりの薄闇のなかでライフルの銃身の下側にあるネジ山を切った突起に二脚架を取りつけて半マイルほど先で草を食べている標的を撃ち殺した。ライフルはヴェルニエ可動照尺つきでマイクロメーターのようにこれを使って距離と風を計算に入れながら照準を合わせる。二等伍長が脇に寝て望遠鏡で観測をし撃ち損じたときに高すぎとか低すぎとか教え馬車は軍曹が三、四頭仕留めるのを待って再び冷えていく大地をごとごと進みはじめ馬車の荷台で猟獣の解体係たちはにんまり笑いながら肘で互いにつつき合った」
人類学者のカールトン・スティーヴンズ・クーンは『世界の狩猟民 その豊穣な生活文化』(平野温美・鳴島史之訳/法政大学出版局/2008年)のまえがきでこのように書いている。
「一万年前、人は皆狩猟民でした。読者のみなさんの先祖も含まれます。一万年はおよそ400世代にわたる期間ですが、この短さでは目立った遺伝的変化は起こりません。人間行動が他の動物行動と同じく、最終的に遺伝された能力(学ぶ能力も含む)に依存する限り、わたしたちの持って生まれた傾向は大して変化するはずはありません。先祖とわたしたちは同じ人間なのです」
マッカーシーは当然のことのようにそういう認識を持ち、自然、野生、人間、暴力を描いている。彼が古代や狩猟を強く意識していることは、まったく逆のかたちで『ザ・ロード』にも表れている。この小説に描き出される終末的な世界では、植物や動物が次々に死滅している。生き残った人間は狩猟採集に回帰することはできない。彼はそういう現実と向き合う親子を見つめているのだ。
マッカーシーの作品は次々に映画化されている。『すべての美しい馬』は、ビリー・ボブ・ソーントンが2000年に映画化した。『血と暴力の国』はコーエン兄弟が映画化した。『ザ・ロード』もジョン・ヒルコート監督、ヴィゴ・モーテンセン主演で映画化され、日本でも年内に公開が予定されている。『平原の町』もアンドリュー・ドミニク監督によって企画が進められているようだ。『ジェシー・ジェームズの暗殺』の監督だけに、期待できそうだ。 |