『血と暴力の国』に続くマッカーシーの新作には、恐るべき終末が描き出される。世界はほとんど灰燼に帰し、太陽を失った灰色の世界のなかで、寒冷化が進行していく。植物や動物は次々に死滅し、食糧が生産されることはない。寒さから逃れるために南を目指す父と子は、まだ略奪されていない保存食を見つけ出すか、餓死するか、自殺するか、理性を失った人間たちの餌食になるしかない。
だが、マッカーシーが見つめる恐るべき終末とは、必ずしも父子を取り巻く現実や苛酷なサバイバルではない。『血と暴力の国』が単なる犯罪小説ではなかったように、この新作もSF小説ではない。父と子は、運命共同体のように見えるが、ひとつの世界を共有しているわけではない。破滅以後にこの世に生を受けた子にとって、父はもはや存在しない世界からやって来た異星人でもある。
子は父から、かつて「州」というものがあったことや、目の前に現われた「ダム」がなんのためにあるのかを知らされる。だが、「州」や「ダム」にはもはやなんの意味もない。子は父が見つけ出した「コカコーラ」や「梨」という飲み物や食べ物を初めて味わう。だが、それらはもはや存在しない世界から出現した幻である。おそらく二度と出会うことがないからだ。彼らは地図を頼りに移動しているが、地名に言及されることはない。彼らの名前も明らかにされない。意味がないからだ。
子には灰色の世界しかない。だが彼は、それをつぶさに見ているわけではない。父子は他の人間の気配を感じると、物陰に隠れ、父は子に顔を伏せるように命じる。食糧を探すために空き家に入るときは、まず父がひとりで調べる。もちろんそこが修羅場と化していることもある。
父の思いは複雑だ。あまりにも悲惨な現実を子の記憶に残したくはない。だが、自分の思い出を語ろうとすれば、もはや存在しない世界と最初から存在しなかった世界に違いがあるのかという疑問に苛まれる。マッカーシーは、この絶望的な状況のなかで、人間と世界の間に物語が成立し得るのかという問いを突き詰めていく。
そんな主題は、国境3部作ですでに予告されていたともいえる。『平原の町』の終盤で、ビリーと出会った通りすがりの男は、夢に現われた旅人が感じた崩壊の予兆を、このように語っている。
「世界について語る力が退くとともに世界についての物語も縫い糸を失い、従ってその信頼性を失うに違いないからだ。きたるべき世界は過ぎた世界から形成されるに違いない。ほかに素材はないからだ。しかし彼は世界が足もとで解けていくのを見たのだと思う。彼がそれまでの旅で採ってきたもろもろの手続きはいまや万物の死から発する谺のようなものに思えた。彼は恐ろしい闇が忍び寄ってくるのを見たのだと思う」
国境3部作の主人公たちは、馬や狼の野生に導かれ、人間には見えないもうひとつの世界に触れる。これに対して新作では、『血と暴力の国』よりもさらに明確に、二重の意味で世界が失われている。きたるべき世界を形成するはずの過ぎた世界が失われているのだから、見えないもうひとつの世界には触れようもない。 |