コーマック・マッカーシーが、国境三部作を締め括る『平原の町』以来7年ぶりに発表した『血と暴力の国』は、3部作とはまったく異なる方向性を持つ作品のように見える。舞台はテキサス州南西部だが、主流小説ではなく犯罪小説であり、しかも、1980年という現代に近い時代を背景にしている。3人の主人公は、麻薬取引の資金をめぐって絡み合っていく。
ヴェトナム帰還兵で溶接工のモスは、組織同士が激しい銃撃戦を繰り広げた後の現場に遭遇し、そこに残された大金を持ち去ったことから、命懸けの逃亡を余儀なくされる。彼を追ってくるのは、組織でさえその行動をコントロールできない冷酷なサイコパス殺人鬼シュガー。一方では、実直な保安官ベルが、死人が続出する前代未聞の事件に翻弄されながらも、モスを救おうとする。
しかし、マッカーシーがこの小説で描き出すのは、国境3部作のその先にある世界である。3部作の主人公たちは、馬や狼に魅入られ、苦難の道を歩むことになるが、彼らが追い求めるものは、必ずしも野生に限定されない。
『すべての美しい馬』には、もしジョン・グレイディが馬のいない土地に生まれていたら、「この世界には何かが欠けていると思いあるいはそこにいる自分は本来の自分ではないと感じて」馬を捜し続けると書かれている。『越境』では、ある老人がビリーに、人間についてこう語る。「自分たちのしていることが分かり自分たちが名づけたものが見え互いに呼びかけ合うことはできるがそのあいだにある世界は彼らには見えないのだ」
主人公たちは、野生というよりは、隠された真実に近づくために境界を越える。そして、真実に至ることはないものの、苦難のなかで様々な“物語としての世界”を見出していく。たとえば『越境』で、教会の管理人は、「この世界は石や花や血でできている物のように見えるけれども実は物はすべて物語であり(後略)」と語り、ジプシーは、「結局のところ真実は言葉のなか以外のどこにもあり得ない」と語る。この3部作では、人間と世界と物語の関係が掘り下げられているのだ。
『血と暴力の国』では、人間と世界に影響を及ぼすそんな物語の力が、1980年という時代のなかで失われていくように見える。モスはハンティングをする人間であり、最初は「狩猟人」と表現される。だが、大金を目にした瞬間、彼の生はまったく別のものに変わる。「これから死ぬまでの陽がのぼり陽が沈む一日一日。そのすべてが鞄の中の重さ四十ポンドほどの紙の束に凝縮されていた」。その大金の向こうには、過酷なサバイバルがあるだけで、隠された真実などあるはずもない。
殺人鬼のシュガーは、金も麻薬も超越した原理原則に従い、死体の山を築いていく。エアタンクとスタンガンを組み合わせた手製の武器は、人間の額に穴をあけ、一瞬のうちに死に至らしめる。その犠牲者の状態を見た保安官のベルは、食肉処理場を思い出す。そこでは、圧縮空気を使った道具で牛の眼と眼の間に鉄のボルトが機械的に打ち込まれていくからだ。ベンが「破壊の預言者」と呼ぶシュガーは、物語を抹殺していく存在でもある。
残るベルは、この小説のなかで特異な位置を占めている。各章の冒頭には彼の告白が挿入されている。それは、荒廃していく世界を嘆く古い人間の愚痴のようにも見えるが、決してそれだけではない。彼の告白は、『平原の町』の終盤の老いたビリーと通りすがりの男の対話を想起させる。そこでは、男の夢に現れた旅人が感じた崩壊の予兆が、世界と物語をめぐってこのように綴られている。
「世界について語る力が退くとともに世界についての物語も縫い糸を失い、従ってその信頼性を失うに違いないからだ。きたるべき世界は過ぎた世界から形成されるに違いない。それ以外に素材はないからだ。しかし彼は世界が足もとで解けていくのを見たのだと思う」 |