人が痛みを感じなくなったどうなるのか。本書にはひとつの例として、エドワード・H・ギブソンというボードビルの芸人が紹介されている。彼は痛みを感じなかったので、身体に50〜60本の針を刺す芸で活躍した。だが彼にとって痛みから解放されている生活は、結局、意味のある利益をもたらさず、多かれ少なかれ何事にも関心をもたなくなってしまったという。
この例は誤解を招くかもしれないので、補足しておくと、モリスがこだわっているのは、肉体に限定された痛みではない。それは主に医学の進歩によって明確な境界があるような錯覚が生み出されているだけで、本質的な痛みはそんなふうに分けることはできない。
そのモリスはこのようにも書いている。「もし将来誰かが、簡単に扱えて値段も安く、何の副作用もなく一生痛みを免れることができるような錠剤を発明したなら、私たちはただちに、人間であることの意味をあらためて捏造する作業に取りかからなければならないことだろう」
モリスが取り戻そうとする痛みは、『アッチェレランド』や『ディアスポラ』を読むと、その意味がより鮮明になるように思う。
たとえば『ディアスポラ』では、人間がその存在をソフトウェア化し、肉体を捨て去り、仮想空間に《移入し》て、ポリスと呼ばれる都市に暮らしている。では、肉体や時間から解放されたらどうなるのか。
「肉体人のものを大まかにモデルにした精神を持つ市民は、気移りをまぬがれない。最重視している目標や価値に対する関心でさえ、時間とともに衰えてしまうのだ。柔軟性は肉体人からうけ継がれた最重要事のひとつだが、《移入》前の寿命と計算的に等価な期間を一ダース送ったあとでは、もっとも頑強な人格でさえ、統一を失ってエントロピー的無秩序状態になりがちだった」
モリスは、痛みと時間の関わりにも言及している。「痛みは決して単なる感覚ではなく、時間に拘束されている大脳が解釈する何かであり、時間に拘束されている心が意味を明らかにする何かである。すなわち、独特な人類の歴史の痕跡を備えた、独特な人類の加工品である」
『アッチェレランド』を読み、『ディアスポラ』を振り返り、痛みに対するモリスの視点がさらに興味深いものになった。 |