■■極右派が台頭するレーガン時代、郊外に広がる波紋と緊張■■
先ほどこうした状況を読む鍵として、ふたつのことをあげたが、郊外の世界につづいて、今度は80年代以降のアメリカ社会の変化を振りかえってみることにしよう。
アメリカでは、80年代に入った頃から、人種差別を標榜する集団の活動が表面化するようになった。
これは、映画を見ているだけでもよくわかる。たとえば、80年代初頭にテキサス州で起こった、ヴェトナム難民とKKKに煽動された白人漁師との衝突事件が、ルイ・マル監督の『アラモベイ』のベースになっているし、84年にデンヴァーで、ラジオのトークショーのホストでユダヤ人のアラン・バークが、極右派の地下組織のメンバーにマシンガンで射殺された事件は、エリック・ボゴジアンの舞台を映画化したオリバー・ストーンの『トーク・レディオ』やコスタ・ガブラスの『背信の日々』の冒頭のエピソードに反映されている。そして、いまも触れたようにKKKの指導者だったデイヴィッド・デュークが、選挙活動によって、人種差別を政治の表舞台に持ちだし、マスコミの注目を集めた。
こうした変化については、今年の夏に翻訳が出たジェームズ・リッジウェイの『アメリカの極右』という本がとても参考になる。これは、そうした極右派の歴史と活動の背景を綿密な取材で堀り下げ、その全体像と現在を浮き彫りにするノンフィクションである。本書がアメリカで出版されたのは90年のことだが、なぜいま極右派なのかということについては、次のような記述から明らかだろう。
アメリカの社会が、それまでクロゼットにしまってあった人種差別主義をむやみに外に出そうとするようになった性格の変化の要因としては、さまざまなものが挙げられる。レーガン政府が極右派の登場を承認し、その支持を期待したことは、もっとも大きな要因の一つである。
一九八〇年代になってロナルド・レーガンが、政治の頂点に昇りつめ、「ニュー・ライト」が脚光を浴びるようになったことに勇気づけられて、人種差別集団が暴力事件を起こす頻度が急増した。
こうした80年代以降のアメリカ社会の変化は、都市と郊外の関係とも密接に結びついている。
たとえば、レーガン政権の極端な保守化政策とそれを引き継いだブッシュ政権のもとで、黒人の地位や立場は後退した。都市の黒人たちは、袋小路に追いつめられ、犯罪に手を染め、血を流しあう。レーガンは、そんなインナーシティの荒廃を無視して、白人中流の古き良きアメリカへの郷愁に訴えかける。そして、郊外の世界は、都市に対して壁をたて、一見平穏に見えるが、背後からは極右派の影がじわじわと広がってくるのだ。
バトンルージュ市内とセントラル地区の関係は、まさにこうした状況の縮図といってよいだろう。『フリーズ』によれば、91年以降、郊外でも黒人による犯罪が起こるようになったとあるが、都市と郊外のこんな不条理な関係によって、郊外に波紋が広がりつつあるのだ。こうした状況は、ロサンジェルスにも当てはまる。市街の人種暴動は記憶に新しいが、今度は、郊外の高級住宅地で放火の疑いが強い火災が続発するというのは、あまりにも象徴的ではないだろうか。
そして、郊外の世界というのは、外部に対しては壁が高いが、内側ではオープンな関係によってコミュニティ精神を培おうとするために、個々の家の構造は、意外と無防備になっている。それだけに、筆者が様々なフィクションで知る限りでは、コミュニティ全体の壁が役にたたないとなると、表面的に平穏は保っているものの、心のなかではパニックに陥っているという設定をしばしば目にする。たとえば、銃声で目を覚ました主婦が、瞬間的にスラム街で暴動が起こり、郊外に押しよせてきたと思いこんだり、夜にドアを激しく叩く音をきいて、突然、自分の家が郊外ではなく、ブロンクスにあるような気持ちになる妻などが描かれているのだ。
仮に、セントラル地区にそんな不穏な空気が漂っていたとするならば、ハロウィンのイメージは決していいものではない。『フリーズ』では、事件後、すぐに現場に急行したマキャリスター警部の視点で、「セントラル地区は、ほとんどみんなが顔見知りになるような町だった」と書かれている。これは、コミュニティの結束が堅いということだが、ハロウィンの仮装は、コミュニティの内と外の境界を曖昧にし、場合によって大きな不安や恐怖を招くことになるのだ。
最後にはっきりと断っておくが、ここまで書いてきたことは、ピアーズ容疑者の正当防衛の主張を正当化するためのものではまったくないない。彼は実際に人種差別主義者だったかもしれないが、ひとたび平凡な郊外居住者という印象をまとっただけで、事件から目がそらされ、同情が集まるほど、都市と郊外の関係が歪み、緊迫しているということだ。そして、こうした状況が根本的に見直され、打開されていかない限り、銃を手放そうとする勇気は、わきあがってこないだろう。 |