日本人留学生射殺事件とバトンルージュ郊外の状況
――事件の背景にある社会の変化と郊外の緊張


 
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(初出:「骰子/DICE」No.01、1993年12月、若干の加筆)
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■■バトンルージュの市中心部と郊外のセントラル地区の関係■■

 郊外の一般的な性格や問題点については冒頭で触れたとおりだが、それでは、バトンルージュの郊外はどうだったのか。『フリーズ』のなかにとても暗示的な文章が盛り込まれている。たとえば、事件が起こったバトンルージュ郊外のセントラル地区については、以下のような記述がある。

 一九七〇年代から八〇年代にかけて、このセントラル地区はめざましい発展をした。何千、何百という住宅が新築され始め、白人たちの市中心街からの逃避が始まった。彼らは、市内で急増し始めた犯罪、そして、他の国から流入し始めた移民や黒人たちから逃避したのである。

 それから、バトンルージュとその近郊における他殺事件の件数の変化にも注目すべきものがある。被害者の数は、1991年には、市内で61人、郊外で6人の合計67人、92年には、市内で59人、郊外では、服部君を含めて15人となっている。また、92年の市内における他殺事件については、加害者の80パーセント、被害者の86パーセントが黒人であるというように、市内では、黒人同士が血を流しあっている。

 そして、このような数字のあいだには、以下のような記述がある。

 しかし、総体的な数だけが問題ではなく、他殺事件が一九九〇年までは、市内に限られていたのが、最近の傾向として郊外に広がりつつある。犯罪から逃れるために郊外に移り住んだ人たちにとっては、この数字は不安を感じさせるものだ。

 こうした記述は、このノンフィクションのちょうど中盤にあらわれ、最初に読んだときには、重要なポイントとして堀り下げられていくことを期待するのだが、これ以後、あまり進展することがない。

 唯一、この部分で他に注目すべきことは、民主党のエドワーズ現州知事とKKKの元指導者デイヴィッド・デュークの対決になった91年の州知事選挙で、「バトンルージュやセントラル地区を含むイーストバトンルージュ・パリッシュでは、エドワーズ州知事が勝利を収めたが、セントラル地区だけに限ると、二対一の割合で、デュークが勝った」ということだ。

 著者のあとがきには、スペースの関係上、文章を割愛しなければならなかったとあり、もしこの部分もそれに含まれているのであれば、非常に残念なことだ。

 しかし、著者が、郊外の世界にあまり関心を持っていないことは、その表現から察することができる。たとえば、「セントラル地区は、新興住宅地として発展したにもかかわらず、政治的、そして思想的には保守的な姿勢を守り続けている」という記述がある。新興住宅地として発展したにもかかわらずというのは、伝統的に保守的なルイジアナの風土からひとたび切り離されたということを意味するのだろうが、一般的には、人々が都会から郊外に転居した場合、政治的には以前よりも保守的になるという傾向が、全国的な統計としてはっきり出ている。あるいは、「実際にセントラル地区にしばらく住んでみれば、予想以上に排他的なところかもしれない」という推測があるが、筆者は、いまここにあげてきたことだけでも、市内とセントラル地区の関係に、アメリカが抱える大きな問題の縮図を見る思いがする。

 
《データ》
 
『サバービアの憂鬱』 大場正明●
(東京書籍、1993年)
 
『フリーズ ピアーズはなぜ服部君を撃っ
たのか』 平義克己/ティム・タリー●
(集英社、1993年)
 
『アメリカの極右――白人右派による新しい
人種差別運動』 ジェームズ・リッジウェイ●
山本裕之訳(新宿書房、1993年)
 
 
 
 
 

■■極右派が台頭するレーガン時代、郊外に広がる波紋と緊張■■

 先ほどこうした状況を読む鍵として、ふたつのことをあげたが、郊外の世界につづいて、今度は80年代以降のアメリカ社会の変化を振りかえってみることにしよう。

 アメリカでは、80年代に入った頃から、人種差別を標榜する集団の活動が表面化するようになった。

 これは、映画を見ているだけでもよくわかる。たとえば、80年代初頭にテキサス州で起こった、ヴェトナム難民とKKKに煽動された白人漁師との衝突事件が、ルイ・マル監督の『アラモベイ』のベースになっているし、84年にデンヴァーで、ラジオのトークショーのホストでユダヤ人のアラン・バークが、極右派の地下組織のメンバーにマシンガンで射殺された事件は、エリック・ボゴジアンの舞台を映画化したオリバー・ストーンの『トーク・レディオ』やコスタ・ガブラスの『背信の日々』の冒頭のエピソードに反映されている。そして、いまも触れたようにKKKの指導者だったデイヴィッド・デュークが、選挙活動によって、人種差別を政治の表舞台に持ちだし、マスコミの注目を集めた。

 こうした変化については、今年の夏に翻訳が出たジェームズ・リッジウェイの『アメリカの極右』という本がとても参考になる。これは、そうした極右派の歴史と活動の背景を綿密な取材で堀り下げ、その全体像と現在を浮き彫りにするノンフィクションである。本書がアメリカで出版されたのは90年のことだが、なぜいま極右派なのかということについては、次のような記述から明らかだろう。

 アメリカの社会が、それまでクロゼットにしまってあった人種差別主義をむやみに外に出そうとするようになった性格の変化の要因としては、さまざまなものが挙げられる。レーガン政府が極右派の登場を承認し、その支持を期待したことは、もっとも大きな要因の一つである。

 一九八〇年代になってロナルド・レーガンが、政治の頂点に昇りつめ、「ニュー・ライト」が脚光を浴びるようになったことに勇気づけられて、人種差別集団が暴力事件を起こす頻度が急増した。

 こうした80年代以降のアメリカ社会の変化は、都市と郊外の関係とも密接に結びついている。

 たとえば、レーガン政権の極端な保守化政策とそれを引き継いだブッシュ政権のもとで、黒人の地位や立場は後退した。都市の黒人たちは、袋小路に追いつめられ、犯罪に手を染め、血を流しあう。レーガンは、そんなインナーシティの荒廃を無視して、白人中流の古き良きアメリカへの郷愁に訴えかける。そして、郊外の世界は、都市に対して壁をたて、一見平穏に見えるが、背後からは極右派の影がじわじわと広がってくるのだ。

 バトンルージュ市内とセントラル地区の関係は、まさにこうした状況の縮図といってよいだろう。『フリーズ』によれば、91年以降、郊外でも黒人による犯罪が起こるようになったとあるが、都市と郊外のこんな不条理な関係によって、郊外に波紋が広がりつつあるのだ。こうした状況は、ロサンジェルスにも当てはまる。市街の人種暴動は記憶に新しいが、今度は、郊外の高級住宅地で放火の疑いが強い火災が続発するというのは、あまりにも象徴的ではないだろうか。

 そして、郊外の世界というのは、外部に対しては壁が高いが、内側ではオープンな関係によってコミュニティ精神を培おうとするために、個々の家の構造は、意外と無防備になっている。それだけに、筆者が様々なフィクションで知る限りでは、コミュニティ全体の壁が役にたたないとなると、表面的に平穏は保っているものの、心のなかではパニックに陥っているという設定をしばしば目にする。たとえば、銃声で目を覚ました主婦が、瞬間的にスラム街で暴動が起こり、郊外に押しよせてきたと思いこんだり、夜にドアを激しく叩く音をきいて、突然、自分の家が郊外ではなく、ブロンクスにあるような気持ちになる妻などが描かれているのだ。

 仮に、セントラル地区にそんな不穏な空気が漂っていたとするならば、ハロウィンのイメージは決していいものではない。『フリーズ』では、事件後、すぐに現場に急行したマキャリスター警部の視点で、「セントラル地区は、ほとんどみんなが顔見知りになるような町だった」と書かれている。これは、コミュニティの結束が堅いということだが、ハロウィンの仮装は、コミュニティの内と外の境界を曖昧にし、場合によって大きな不安や恐怖を招くことになるのだ。

 最後にはっきりと断っておくが、ここまで書いてきたことは、ピアーズ容疑者の正当防衛の主張を正当化するためのものではまったくないない。彼は実際に人種差別主義者だったかもしれないが、ひとたび平凡な郊外居住者という印象をまとっただけで、事件から目がそらされ、同情が集まるほど、都市と郊外の関係が歪み、緊迫しているということだ。そして、こうした状況が根本的に見直され、打開されていかない限り、銃を手放そうとする勇気は、わきあがってこないだろう。


(upload:2010/09/07)
 
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