日本人留学生射殺事件とバトンルージュ郊外の状況
――事件の背景にある社会の変化と郊外の緊張


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(初出:「骰子/DICE」No.01、1993年12月、若干の加筆)
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■■服部君射殺事件と『サバービアの憂鬱』の接点■■

 1992年10月17日にアメリカのルイジアナ州バトンルージュ郊外で、ハロウィンパーティに出かけた日本人留学生・服部剛丈君が訪問する家を間違え、射殺された事件は、筆者にとって非常に気になる事件だった。それは、筆者が書きすすめていた『サバービアの憂鬱』という本の内容とこの事件の背景に、深い接点があるように思えたからだ。そしてつい最近(1993年11月)、やっと『サバービアの憂鬱』を出すことができたので、この本に対するささやかな加筆の意味も込めて、服部君の事件をきっかけに考えたことを書いてみたい。

 最初に『サバービアの憂鬱』の内容を簡単に紹介しておくと、“サバービア(Suburbia)”という言葉には、郊外住宅地や郊外居住者、あるいは郊外住宅地における生活様式といった意味がある。具体的には、スティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』や『E.T.』、『ポルターガイスト』といった作品の舞台や登場人物を思い浮かべてもらえば話が早い。

 日本でいえば、新興住宅地ということになるが、アメリカの郊外の場合には、芝生のある一戸建て住宅、見事に統一された景観、ステーションワゴン、裏庭でのバーベキューというようなはっきりとした原イメージがある。郊外化は、中流層が増加する第二次大戦後から50年代にかけて急速に進み、こうしたイメージが定着していくことになった。

 様々な問題をかかえる都会を離れ、素晴らしい環境で日常生活を送り、子育てができるというのは、一見するとよいことずくめのようだが、現実的には、問題がないわけではなかった。たとえば、いま書いた理想のイメージは、当初は白人中流のものであり、郊外のコミュニティには、排他的で人種差別的な性格があった。

 郊外では、集団の倫理が優先されるために、個人の自由が損なわれたり、プライバシーが制限される傾向がある。平等という理想のもとに、あらゆるものが均質化へと向かい、中心や精神的な支柱といったものが見失われる。荒廃を招くような歓楽の要素を排除するために、退屈にさいなまれる……というように、様々な問題点をあげることができる。

 『サバービアの憂鬱』では、こうしたアメリカの郊外のイメージと現実を、映画や小説、写真集やアートなどを通して浮き彫りにすることを試みた。社会学的な文献やノンフィクションも少なからず取りあげているが、狙いとしては、フィクションを媒介としたノンフィクションといった感じである。ノンフィクションというと、一般的には取材によって対象に迫るところから生まれてくるものだが、こんなふうに距離をおいた視点から見えてくるリアリティもあるのではないかということだ。

 そこで服部君の事件だが、それはバトンルージュ郊外の住宅地で起こった。『サバービアの憂鬱』では、50年代から90年代初頭までの郊外の変貌を追いかけているが、80年代中盤から90年代初頭に至る郊外の世界には、不穏な空気が漂っている。そのことについては後に詳しく触れるが、要するにレーガン政権以後の保守化政策の波紋が広がりつつあったということだ。たとえば、人種差別を標榜する極右派の影が、保守的な郊外にのびてきたり、郊外の若者の自殺が増加したり、サバーバン・ギャングと呼ばれる集団同士の抗争が起こる、といった事実が浮かび上がってくる。

 服部君の事件は、彼がハロウィンパーティに行く途中に起こったが、『サバービアの憂鬱』には、“ハロウィン”というキーワードから郊外の世界を見るといった視点も含まれている。

 
《データ》
 
『サバービアの憂鬱』 大場正明●
(東京書籍、1993年)
 
『フリーズ ピアーズはなぜ服部君を撃っ
たのか』 平義克己/ティム・タリー●
(集英社、1993年)
 
『アメリカの極右――白人右派による新しい
人種差別運動』 ジェームズ・リッジウェイ●
山本裕之訳(新宿書房、1993年)
 
 

■■人種偏見だけでは片づけられない複雑な背景■■

 というようなわけで、筆者この事件に特別な関心を持っていたのだが、つい最近、この事件に関するノンフィクションが出版された。平義克己/ティム・タリー著『フリーズ ピアーズはなぜ服部君を撃ったのか』である。

 平義克己は、カリフォルニア州サンディエゴで開業している日本人弁護士で、ティム・タリーは、バトンルージュ市の地元紙「アドボケット新聞」の記者だ。本書の前書きによれば、ふたりは当初、別々に事件の真相を探っていたが、協力関係が生まれたという。本文は、平義の一人称で綴られ、ティムの取材による情報を挿入するかたちで展開していく。

 本書では、事件とその後の裁判の顛末という流れに沿って、背景が掘り下げられていく。ご存知のように服部君の事件では、裁判で無罪の評決が下されたが、著者の平義は、そこに人種偏見がなかったかどうかを見極めようとしている。

 このノンフィクションは、非常に力の入った作品であり、事件に関心のある人には一読をお勧めするが、筆者には一方で、読後に何か釈然としない印象が残った。

 確かに、事件と裁判の背景は、鋭い視点で克明に浮き彫りにされている。たとえば、事件直後は、ピアーズに対してきわめて批判的だった世論が、しだいに彼に同情的なものに変わっていく過程や、この裁判が、地元において宿命のライバルともいえるダグ・モロー検事長とルイス・アングルズビー弁護士の因縁の対決にすりかえられかねない状況、そして、巧みに陪審員たちの感情に訴えかけ、自分がピアーズの立場だったらという意識を植えつけていくアングルズビー弁護士の狡猾な手段など、裁判の歪みは生々しく伝わってくる。

 そして結局、無罪の評決がくだされる。著者のひとつの結論は、「(服部君は)殺されただけでなく、裁判でも偏見の犠牲になったのかもしれない。アメリカの法廷で、日本人が正義を得ることは、考えているよりずっと難しいのかも知れない」ということだ。

 筆者が釈然としない印象を受けるのは、本書で克明に描きだされる事件と裁判の背景が、こうした結論を導くためのものではなく、新たな問題を提起するためのステップのように思えるからだ。単に人種偏見の犠牲ということになると、逆に焦点がぼやけてしまうように思える。

 たとえば、現時点では本当のところピアーズが人種偏見の持ち主かどうか定かではないが、仮に、巧妙な戦術によって彼が平凡な一市民という印象を獲得したとき、とたんに事件そのものから関心がそれて、彼に同情が集まるような状況、言葉をかえるなら、めぐりあわせしだいではこのような事件が起こる可能性があり、誰もが当事者になりかねないと思わせるような状況というものが、もっと掘り下げられるべきなのではないか。アングルズビー弁護士は、明らかにそうした状況を最大限に利用している。

 筆者は、この状況を読む鍵が、郊外の世界と80年代以降のアメリカ社会の変化が交差するところにあると思う。 =====>2ページに続く

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