■■服部君射殺事件と『サバービアの憂鬱』の接点■■
1992年10月17日にアメリカのルイジアナ州バトンルージュ郊外で、ハロウィンパーティに出かけた日本人留学生・服部剛丈君が訪問する家を間違え、射殺された事件は、筆者にとって非常に気になる事件だった。それは、筆者が書きすすめていた『サバービアの憂鬱』という本の内容とこの事件の背景に、深い接点があるように思えたからだ。そしてつい最近(1993年11月)、やっと『サバービアの憂鬱』を出すことができたので、この本に対するささやかな加筆の意味も込めて、服部君の事件をきっかけに考えたことを書いてみたい。
最初に『サバービアの憂鬱』の内容を簡単に紹介しておくと、“サバービア(Suburbia)”という言葉には、郊外住宅地や郊外居住者、あるいは郊外住宅地における生活様式といった意味がある。具体的には、スティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』や『E.T.』、『ポルターガイスト』といった作品の舞台や登場人物を思い浮かべてもらえば話が早い。
日本でいえば、新興住宅地ということになるが、アメリカの郊外の場合には、芝生のある一戸建て住宅、見事に統一された景観、ステーションワゴン、裏庭でのバーベキューというようなはっきりとした原イメージがある。郊外化は、中流層が増加する第二次大戦後から50年代にかけて急速に進み、こうしたイメージが定着していくことになった。
様々な問題をかかえる都会を離れ、素晴らしい環境で日常生活を送り、子育てができるというのは、一見するとよいことずくめのようだが、現実的には、問題がないわけではなかった。たとえば、いま書いた理想のイメージは、当初は白人中流のものであり、郊外のコミュニティには、排他的で人種差別的な性格があった。
郊外では、集団の倫理が優先されるために、個人の自由が損なわれたり、プライバシーが制限される傾向がある。平等という理想のもとに、あらゆるものが均質化へと向かい、中心や精神的な支柱といったものが見失われる。荒廃を招くような歓楽の要素を排除するために、退屈にさいなまれる……というように、様々な問題点をあげることができる。
『サバービアの憂鬱』では、こうしたアメリカの郊外のイメージと現実を、映画や小説、写真集やアートなどを通して浮き彫りにすることを試みた。社会学的な文献やノンフィクションも少なからず取りあげているが、狙いとしては、フィクションを媒介としたノンフィクションといった感じである。ノンフィクションというと、一般的には取材によって対象に迫るところから生まれてくるものだが、こんなふうに距離をおいた視点から見えてくるリアリティもあるのではないかということだ。
そこで服部君の事件だが、それはバトンルージュ郊外の住宅地で起こった。『サバービアの憂鬱』では、50年代から90年代初頭までの郊外の変貌を追いかけているが、80年代中盤から90年代初頭に至る郊外の世界には、不穏な空気が漂っている。そのことについては後に詳しく触れるが、要するにレーガン政権以後の保守化政策の波紋が広がりつつあったということだ。たとえば、人種差別を標榜する極右派の影が、保守的な郊外にのびてきたり、郊外の若者の自殺が増加したり、サバーバン・ギャングと呼ばれる集団同士の抗争が起こる、といった事実が浮かび上がってくる。
服部君の事件は、彼がハロウィンパーティに行く途中に起こったが、『サバービアの憂鬱』には、“ハロウィン”というキーワードから郊外の世界を見るといった視点も含まれている。 |