台湾の急速な経済発展、そして87年の戒厳令解除に始まる民主化の進展、拡大には本当に目を見張るものがある。しかし、こうした台湾社会の変貌をあらためて振り返ってみるなら、むしろ国民党政権が、自分たちこそが全中国の代表で、台北は大陸に戻るまでの臨時首都であるというような“裸の王様”同然の体制を維持してきたことに驚くべきなのかもしれない。しかも、そんな裸の王様から脱皮はしたものの、今度は逆の意味で宙吊りの状態にある。
つまり、限りなく独立に近い政治体制に移行しているにもかかわらず、大陸中国の先行きが不透明であるために、独立か統一かといった話題に対しては、民意を反映する手段を獲得した一般の人々の多くが、曖昧な現状維持を望んでいるということだ。
政治は民主的でありながらも曖昧な立場をとることを余儀なくされ、経済だけが奇跡的ともいわれる発展をとげる。それは、戦後にきっちりとけじめをつけられないままに、経済だけが発展してしまい、曖昧な体制に支えられている国に暮らす人間にとって、決して他人事ではない。それだけに新しい台湾映画から見えてくる社会や個人の在り方にはいろいろ興味深いものがある。
まず、アン・リーの『恋人たちの食卓』とウー・ニェンチェンの『多桑/父さん』という2本の映画では、親子をめぐるドラマを通して、台湾の過去と現在が見えてくる。
『恋人たちの食卓』は、アメリカを拠点に活躍するアン・リーが台湾に戻って撮った作品だ。映画の舞台は現代の台北で、妻に先立たれてから娘たちを男手ひとつで育ててきた父親とそれぞれに恋に悩む3人の娘たちのドラマが描かれる。この父親は一流ホテルの元シェフで、この一家には日曜日になると彼の豪華な料理で円卓を囲むしきたりがあり、映画は、この日曜の晩餐と料理を節目にして物語が展開していく。
日曜の晩餐で食卓を彩る料理の数々は実に見応えがあるが、ここで見逃せないのは、父親と料理の関係である。映画は日曜の晩餐から始まり、その食卓には豪華な料理が並んでいるが、娘たちの食は一向にすすまない。これはもちろん、親子の対話が難しくなっていることを暗示しているが、決してそれだけではない。
妻を亡くした後、父親の支えは娘を別にすれば中国料理であり、彼は出口のない台湾という世界のなかで、大陸の伝統をひたすら突き詰めることによってアイデンティティを維持してきた。そして、爛熟の極みともいえる彼の料理は、ホテルの厨房であれば絶対的なものであるが、新しい時代を生きる娘たちとの晩餐の席では、いわば裸の王様なのである。
そんな父親は、料理人の命ともいえる味覚を失いつつある。これも、単に娘たちとの関係の溝を表しているのではない。大陸の料理を突き詰めてきた彼は、台湾社会の変化のなかで引き裂かれつつあり、それが料理に対する距離を生み出しているのだ。
ところがそんな時この父親は、ひょんなことからこれまでとはまったく違う料理を作りはじめることになる。彼の家の隣に、娘が親しくしている離婚調停中の母子が暮らしているのだが、小学校に通うその隣家の娘が悲惨な弁当を持たされているのに気づき、弁当の差し入れをし、自分が悲惨な弁当を引き受けるのだ。その差し入れはクラスの注目の的になり、彼は、娘が集めてきたクラスメートのリクエストに応えていくことになる。
要するに、悲惨な弁当を味わったり、子供たちの平凡なリクエストに応えることによって、原点に立ち返って食を通した自己の模索を始めるのである。そんなふうにして彼は、大陸の伝統という幻影から解き放たれていく。
またこの映画には、かつて父親の影響を受けて料理人になることを望んだ次女を、父親が冷たく突き放したというエピソードも盛り込まれている。おそらく彼は、やがて突き当たる壁を予感し、娘に同じ道を歩ませまいとしたのだろう。この父親は最後に味覚を取り戻すが、彼が自分の人生にどんな決断を下し、娘との関係がどう変わるのかをじっくり見てみると、この親子のドラマからは、台湾社会の変化がくっきりと浮かび上がってくるのである。
一方、『多桑/父さん』は、『恋恋風塵』や『悲情城市』をはじめ数多くの台湾映画の脚本を手がけてきたウー・ニェンチェンの初監督作品で、彼の父親の生きざまを息子の眼差しを通して綴る自伝的な物語になっている。
1929年生まれのこの父親は、日本の統治下で教育を受けた世代で、日本の敗戦後も日本に憧れを持ち、家族を養うために鉱夫として働きつづけ、やがて肺を患い闘病生活を送ることになる。
物語の背景となるのは、50年代から父親が亡くなる90年までで、もちろんそこからは貧しい状況から次第に豊かになっていく台湾が見えてくる。映画は、父親と息子の絆を軸に、ある台湾人一家の苦闘の歴史を綴っていくが、この父親の生き様はとにかく強烈な印象を残す。
彼は猛烈な頑固者で、自分の思う通りにしか生きられない。家族には、自分のことを日本語で“父さん”と呼ばせる。息子を映画に連れていくという口実で飲み歩き、職にあぶれると麻雀賭博に明け暮れる。次男坊がテレビのバスケットボールの試合に熱中していると、日本に勝てるはずがないと言って息子を小突く。闘病生活に入っても、アレが立たなくなると言って薬を飲まず、糖尿病も併発して甘いものを禁じられても隠れてむさぼる。息子が外省人(大陸出身者)の女性と結婚すると“外省”と冷たく当たる。
本当にどうしようもない男なのだが、そんな彼の存在がだんだんと魅力的に見えてくる。魅力的どころか深い共感すら覚えるようになる。それはなぜかといえば、冒頭で書いたように国民党独裁が裸の王様であるとするなら、ある意味でこの父親は、それに徹底的に対抗するような裸の王様を生きていることになるからだ。
偏屈だろうが卑屈だろうが、結果的に彼なりの筋を通しきってしまうのだ。この父親は、最期まで神であろうが何であろうが他の力に仕切られることを拒み、息子は過去を振り返りながら、最期の瞬間にそんな父の姿を初めて“毅然とした”と表する。憔悴しきった父親が、息子の瞳のなかで昔日の面影を取り戻し、旅立っていく姿には、思わず胸を締めつけられ、泣けてくるのだ。
これに対して、エドワード・ヤンの『恋愛時代』とツァイ・ミンリャンの2本の映画『青春神話』と『愛情萬歳』では、繁栄を極めた現代の台北を生きる新しい世代の姿が描きだされる。このふたりの監督の作品は対比してみると面白い。彼らはともに、他者との距離をつかめなくなる人々のドラマを通して、社会の変化を描いているが、そのスタイルが見事に対照的なのである。
エドワード・ヤンのスタイルはきわめて饒舌だ。『恋愛時代』には、カルチャー・ビジネスの会社の経営者や企業コンサルタント、ポストモダンを自称する劇作家、テレビで人気の女性キャスターや過去の成功に背を向けて隠遁を決め込む作家など、華やかな業界に生きる人物たちがたくさん登場し、たった二日のあいだに様々なドラマを繰り広げていく。
ドラマの中心に位置するのは、カルチャー・ビジネス会社の女性経営者モーリー、彼女と学生時代からの親友で、右腕として働くチチ、同じく彼女たちのかつての同級生で、いまはチチと恋人同士の関係にある公務員ミンの三人で、たくさんの登場人物たちが複雑に入り組むドラマが彼らの友情や恋愛に影響を及ぼしていく。
登場人物たちの設定やキャラクターには、様々なコントラストがある。チチは中国的な情を象徴するような人物で、誰からも好かれる優等生タイプであるのに対して、モーリーや彼女の婚約者アキンのコンサルタントであるラリーは、個人的な欲望や利益のためには誰でも利用する。
作家であるモーリーの義兄は、大衆に迎合した恋愛小説を書いて成功した過去を恥じ、厭世的な生活を送っているのに対して、モーリーの同級生だった劇作家バーディは、その義兄の小説を盗作するなど、他人の力で成功してしまい、名声を守るのに躍起になっている。
ミンは、父親が汚職で官僚を辞めたことが影響し、制度に順応して生きようとし、ラリーの愛人であるフォンは、何とかして女優になる機会をつかもうとする。ある者は、枠組みの内側で自分を守ろうとシ、ある者は出ていこうとし、ある者は入り込む機会を狙っている。
彼らは、金銭、才能、感情など何らかのかたちで相互に依存しているが、中国的な情による結びつきと西洋的な個人主義の狭間で、そうした他者との関係に、皮肉なねじれや転倒が生じていく。
たとえばある者は、カルチャー・ビジネスの成功の秘訣は恋愛と同じで、中国人が好む情に訴えることだと言う。そうなると、中国的な情や純粋な友情と取引や芝居の境界が曖昧になる。情によって誰からも好かれるチチは、良い子ぶっていると見られ、悩みだす。
ミンは善意から同僚に助言をしたはずが、その助言を実行した同僚は汚職の罪を着せられ、彼の父親と同じように退職に追い込まれてしまう。そんなふうにして、登場人物たちは他者との距離がつかめなくなり、彼らの関係は混乱していく。
この映画の原題は“獨立時代”で、エドワード・ヤンは、現代台湾における個人と個人のあいだの依存と独立の関係を巧みに掘り下げると同時に、そこに中国と台湾の関係も反映し、依存するとか独立するというのはどういうことなのかを見つめなおしてもいるのだ。
一方、ツァイ・ミンリャンのスタイルは非常に寡黙である。92年の『青春神話』の物語は、受験戦争から脱落して街を彷徨う少年シャオカンと、ぼろぼろの国営アパートに押し込まれ、仕事も金もなく、盗みを繰り返す若者アツーの奇妙な繋がりを軸に展開していく。街でアツーを見かけたシャオカンは、影のように彼につきまとう。『恋愛時代』が経済的に豊かな台北の表舞台を描いているとするなら、こちらは影の部分を描いているといってよいだろう。
|