――映画は偶然似た設定になったのでしょうか。
「私自身の経験に近い部分がかなりあります。というのも蔡監督が、シナリオをまとめる段階で、私の意見をいろいろ求めて、私が話したことをけっこう盛り込んでいるからです。具体的には、バイクを壊す場面とか予備校の場面などは、私が話したこともとになっている部分があります」
――スカウトされたときに、迷ったりはしませんでしたか。
「最初に声をかけられたときに、いくつかカメラテストをやるということになりました。そのときの気持ちは、一生のうちに一度くらいテレビに出るのもいいかなというものでした。カメラテストをやった結果、よいだろうということになって、私を使ってくれることになりました。それで仕事を始めたわけですが、三日ほどしたときに、監督から要求が出てきたんです。もう少し自然にやってくれないかと言われました。別の俳優に変えようかと思ったこともあったみたいです。というのも、ぼくは動きがゆっくりですから。それで、自分としては自然にやっていたつもりなので、その通りに答えると、それをきっかけに監督は役者の演技に対する見方を少し変えたようでした。一口に自然といっても、どういう状態が自然なのかは人によって異なるということに気づいたようでした」
――蔡監督の世界は、他の映画とはかなり違いますが、戸惑ったりはしませんでしたか。
「演じるという仕事に対して、困難や戸惑いは感じませんでした。なぜかというと、まず観客の立場として、ぼくはどんな映画でも観ます。これは嫌いだといって排除するものはありません。ですから演じる立場に立ったときも同じです。タイプの違う作品だからと言って困難は感じませんでした」
――いつからプロの俳優としてやっていこうと思ったんですか。
「『青春神話』を撮り終えた後、中央電影組合がやってる俳優の養成班に入りました。その養成班を終わって、自分の演技に少し進歩があったかなあということを感じ始めました。ちょうどその頃にヨーロッパの映画を見始めました。俳優としてやっていこうと思ったのは、その頃ですね」
――俳優の養成班には自分の意思で入ったのですか。
「台湾では、ポスターに名前が入る前提条件として、俳優養成の専門学校を出ているか、学校を出てない場合には中央電影の養成班で訓練を受けている必要があります。それで、中央電影の方から言われて入りました。俳優の訓練班については、そういうふうに言われて入りましたが、モダン・ダンスの養成班には自分の意思で入りました」
――どうしてダンスを。
「自分の俳優としての基礎的な訓練という意味合いと、モダン・ダンスなので、ある程度即興的な能力を養うのに役立つと思ったんです」
――それは実際に役立ってますか。
「自分が演技をするときに、訓練班で学んだことを意図的に出そうとすることは特にありません。ただ学んだことは意識の深いところに潜り込んでいますので、それが自分の演技のなかに知らず知らずのうちに出てきているということはあると思います」
――シャオカンのキャラクターには、蔡監督自身が投影されていると思いますか。
「蔡監督は基本的にシナリオは自分で書きます。その時に、素材をどこから持ってくるかというと、最初に監督自身の経験、それから俳優たちの経験、それを材料にシナリオを書くわけです。われわれにとっては自分の経験が演技の基礎になってますし、監督の経験も基礎になっている。だから、そんな印象が出てくるのではないでしょうか」
――蔡監督とあなたが相互に影響を及ぼすことで、スタイルが発展するという部分もあると思いますが。
「俳優の立場からいえば、クランクインする前に意見交換を通じて自分がこれから演じようとする役所についてかなりの準備ができています。特に相互の影響とかはありません。ただお互いの間の相互理解、信頼はあります。そういう基盤に立って、監督がぼくという演技者にかなり大きな自由を与えてくれているということはいえます」
――新作『Hole』の設定については、どのように解釈していますか。
「ぼくは人物のキャラクターと背景に密接な関係があるとは考えてないです。密接な関係を持っているのは、人物がなにをやるか、その行動です。背景というのはそんなに大きな要素ではないし、蔡監督の作品では、今後ますますそういう傾向が強くなっていくと思います。つまり、物語の設定に依拠しない作り方です」
――そういう考え方はどのように芽生えてきたのですか。
「最初からあったわけではありません。実は監督が準備している次の作品がありまして、その作品ではぼくもシナリオに関与しています。そのシナリオを作るためにふたりで話し合いをしているうちに、いまお話したようなことが自分なりに見えてきたということです」
――『河』までの三部作と新作の違いをどのように考えていますか。
「大きな違いは、2000年を目前にしたという設定です。これは、製作サイドから与えられたテーマです。それから映画のラストの処理が違います。これまでは、結論めいたものをはっきりと出すことはありませんでした。しかも、雰囲気には悲観的な空気がありました。希望が見えてきません。でも、今回はハッピーエンドです。それからもうひとつ大きな違いをいえば、以前の作品では音楽を使いませんでしたが、今回は歌と踊りを取り入れています」
――蔡監督とは、どんなディスカッションをしたのでしょうか。
「蔡監督は、ある場面を書こうとしているときにまず意見を求めてきます。こういう状況だったらどうするというような質問をします。たとえば、穴を広げる場面です。監督が、下に住む人間に影響を及ぼすことなく穴を広げるにはどうするかと聞いてきました。そこで、傘で破片を受けるように提案しました。ラストについては、アイデアが二、三種類ありましたが、どれもカメラや照明に問題があり、満足できませんでした。それで、ぼくが上からヤン・クイメイを引っ張り上げるようにしてみたらどうかという意見を出して、それがうまくいったわけです。ヤン・クイメイと踊る場面には、プロのダンサーにしかできない振り付けもあったのですが、ぼくがそれをユーモラスな動作に変えたところもあります」
――この映画の穴は何を象徴していると思いますか。
「ぼくの印象でいえば、人と人のコミュニケーションのためのパイプだと思います。つまり、いまの技術の進歩のなかで、これまでの電話が携帯電話になり、さらにはEメールになりました。進歩するにつれて人々が直接顔を合わせたり、声を交わすという機会が希薄になっている。そういう状況のもとでコミュニケーションを回復するためのパイプのように考えています」 |