彼らの最初の子供が生まれたのは1940年代末という計算になるが、彼らが現在の郊外の町に行き着くまでの道のりをたどっていくと、50年代に両親になることは決定的な出来事で、未来につながる一本のレールが敷かれてしまうようにみえる。もちろん、すすんでそのレールに乗る人々は数知れなかったが、わずかな例外である主人公たちは、いわば押し流されるようにして郊外の世界にたどりついてしまったのだ。
子供がほしくなかったのは、彼女よりも自分のほうだった、と彼は思った。そして、その問題にたちかえってみると彼の人生がすべて、ほんとうは望んでいなかったことの連続だった、というのは真実ではなかったか? ほかの家庭的な男たちと同じように、頼りになることを証明するために死ぬほど退屈な仕事につき、健全できちんとしていることが第一だと信じる分別があることを証明するために、家賃の高い上品なアパートに移り、最初の子供が間違いではなかったことを証明するためだけにふたり目をつくり、当然の帰結である次の段階へとのぼれることを証明するために、田舎に家を買った。
彼は、何とか郊外の父親らしく芝刈りやマイホームの補修に精をだそうと心がけるのだが、郊外の世界にリアリティを見出すことができず、精神的に追い詰められていく。しかも著者のイェーツは、小説の舞台となる郊外の町を、50年代の表層的なイメージのベールをはぎとるかのように、リアルに描写していく。たとえば、劇団のエピソードの部分で、町と新しい住人はこんなふうに描かれる。
劇団のメンバーは、それぞれにわが家の台所から外に出て、コートのボタンをとめたり、手袋をするかどうかすこし迷うとき、あたりにわずかに残る、風雨にさらされたひどく古びた家が目につくような気がした。わが家が、重量感を失い、はかないものにみえた。自分たちの家は、一晩中外に出しっぱなしにして雨曝しにあった、たくさんのピカピカのおもちゃのように、うんざりするほど場違いなのだった。同じように、クルマもまともにはみえなかった――いたずらに幅があり、キャンディやアイスクリームのような色を振りまき、泥がはねあがるたびにたじろぐようにみえるクルマは、あらゆる方向から中心部へ、12号線の平らな舗装路につづくでこぼこ道を、言い訳でもしているようにもたもた進んだ。
これはなかなか意味深い文章である。さきほども触れたように、この郊外の町は小さな田舎町がいっしょになったもので、建ち並ぶ新しい郊外住宅のあいだには、田舎町の時代の建物がわずかながら残っている。もちろんそうした古びた家は、土地に根をはり、歴史や伝統といったものを象徴している。そこで、“根無し草”である住人たちは、自分たちが捨て去った過去という“縦”の価値観をふと思い起こして、虚しさをおぼえる。しかも50年代には町によっては、住宅を供給するのがやっとで、道路やその他の設備などが間に合わない住宅地もすくなくなかったということだが、この町のでこぼこ道の光景は、そのことを思い出させる。そんな状況のなかで、住人たちは“横”のつながりを確かなものにするために、劇団というコミュニティの活動に力を注ぐのだ。
そして、このような郊外の世界のなかで、横のつながりに埋没できず、虚しさに目をつぶることができないのがフランクなのだ。彼は会社の女子社員との情事に走ったりもするが、救いを見出すことはできない。しかしフランクが30歳の誕生日を迎えたとき、心の落ち着きをとりもどしたエイプリルは、彼の気持ちを受け入れ、郊外の家をひきはらい、家族でパリに移って暮らすことを提案する。
筆者がこの小説のなかで、本書の展開と共鳴するものを感じたのは、賛同者を得たフランクが、彼を取り巻く問題について力を込めて妻に語ってきかせる場面である。この場面のフランクの言葉はこんなふうにつづいていく。
「この国全体が、感傷にひたりきっている。何年間も世代を越えて病気のように広がりつづけて、いまではまわりのあらゆるものが生気を失っているんだ」
「そんな事態に直面すれば、のんきにかまえてなんかいられないんじゃないか? 欲得とか、精神的な価値観を失うことや水爆の恐怖や、そんなもろもろのことよりもずっと大変なことじゃないのか? いや、きっとこれは、そんなことがらが招いた結果なんだ。そういうことが理解できるだけの、しっかりした教養の積み重ねもないままに、もろもろのことが同時に動きだすとこうなるんだ。とにかく、原因はどうであれ、このままでは合衆国は滅びるんだ。そうじゃないか? あらゆる知識や教養が、みさかいなく噛みくだかれて、消化のいい知的なベビーフードに変えられてしまう。そんな楽観的で、笑顔ばかりで、何も問題がないような感情が、あらゆる人間の人生観にはびこっていないか?」
「そして、男たちが結局みんな骨抜きになることに、何の不思議があるというのだ? それが現実に起こっていることだというのに。これは“適応”やら“安全”やら“強調”やらをめぐるあのたわごとの山がもたらした結果なんだ――まったく、どっちを向いても同じことだ。あのろくでもないテレビの世界では、ジョークが全部、パパはまぬけで、ママがそのあらさがしをするっていう前提でできているんだ」
この長い引用にはあまり説明の必要もないことと思うが、まるで第6章までに書いてきたことを、ひとつの視点でコンパクトに凝縮したような文章ではないだろうか。ここには、激しい勢いで進んだ郊外化から、楽観的な消費社会、適応、安全、協調といったコミュニティの意識、そして父親の立場の変化まであらゆる要素が盛り込まれている。なかでも筆者がいちばん興味をおぼえたのは、もろもろのことが同時に動きだして、50年代の世界ができあがったというくだりである。
この小説はあまりにも長く、これ以上ここでストーリーをたどる余裕はないが、パリ行きを直前にひかえてエイプリルが再び妊娠し、夫婦の運命は救いのない悲劇へと突き進んでいく。結局、彼らは家庭というかたちにしばられ、50年代のアメリカ社会を振り切って脱出することができないのだが、悲劇に向かうふたりの絶望的なあがきをみていると、50年代の世界がとても恐ろしいものに思えてくるのだ。
60年代といえば、集団のなかにおける個人の疎外といった主題から、アメリカ文学のなかで“ブラック・ユーモア”が盛り上がりをみせた時代でもある。もちろん郊外の世界も、その主題の一端を担っていることは、いまさら細かく触れるまでもないだろう。
ユダヤ系の作家ブルース・J・フリードマンが1962年に発表した処女作『スターン氏のはかない抵抗』は、そんな郊外の世界をブラック・ユーモアで描いた作品である。大都会から白人(WASP)ばかりが暮らす郊外の町に引っ越したユダヤ人スターン氏の物語といえば、どのようなブラック・ユーモアが広がっていくのか察しがつくかもしれない。郊外におけるユダヤ人や黒人に対する差別については、第6章で触れたとおりだが、この小説はそうした状況や現実をブラック・ユーモアの題材にしているわけだ。
しかしこの小説は同時に、ユダヤ人の自己言及的な語りをとおして、ユダヤ人に限らない中流、あるいは郊外居住者の内面にひそんでいる小市民的な感情を、皮肉な笑いを誘うように描きだす作品でもある。主人公スターン氏は、外見的にはお尻の大きな恰幅のいい人物という設定になっているが、その中身については、ウディ・アレンあたりを頭に思い浮かべると面白く読めるのではないかと思う。アレンは、周囲で起こったささやかな出来事が心のなかでしこりとなり、くよくよと悩み、さまざまな妄想にとらわれるようなキャラクターを得意としている。そんな彼の存在は、滑稽で可笑しくはあるのだが、同時にどこか切なく悲しげでもあり、しかもそのはざまにリアリティをにじませる。この小説の主人公スターン氏にも、そんなキャラクターを連想させるところがあるのだ。 ==> 2ページへ続く
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