李康生(リー・カンション)インタビュー 02
Interview with Kang-sheng Lee 02


2006年 青山
迷子/不見/The Missing――2003年/台湾/カラー/88分/ヴィスタ
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(初出:「キネマ旬報」2006年9上旬月号)

世代と個人の喪失感を反映した初監督作品
――『迷子』(2003)

 ツァイ・ミンリャン作品の顔として独特の存在感を放ってきた俳優リー・カンション。彼の初監督作品『迷子』は、その導入部に大きな見所が用意されている。ルー・イーチン扮する祖母が半狂乱になって孫を探す姿を長回しでとらえ、ドキュメンタリーに近い緊張感を生み出しているのだ。

「ここは映画の方向を明確にする非常に重要な場面です。ルー・イーチンが探すのは孫ですが、それだけではなく、観客に、人が何かをひたすら探しつづけるという世界に入り込んでもらうために、この場面を撮りました。ルー・イーチンと接触する人たちは、すべてたまたまそこにいた人たちです。カメラは、彼女がどこに行っても撮れるように、公園のなかで丘のようになっている場所に置き、スタッフは少し離れた場所で待機しました。カメラを置きっ放しにしておくと、人はそれが最初からあるものだと思って、あまり意識しなくなるので、それから撮り始めました。撮影はうまくいったんですが、彼女と接触する人たちの声を拾うのが難しかった。そのため、ポスプロで音の処理にかなり時間がかかりました。部分的に後から吹き替えてもいます」

 この映画では、その祖母と中学生の少年のドラマが、並行して描かれていく。祖母は公園を飛び出し、バイクの運転手や行商人を巻き込み、亡夫にまで救いを求める。一方、少年は、祖父の姿が見えないことを気にもとめず、インターネットカフェでゲームに熱中し、席を外した仲間が戻ってこないことに気づいても、行動を起こそうとはしない。

「あの祖母は、私の母がヒントになってます。母は、兄の子の面倒をきちんと見られないのではないか、年を取って役立たずになってしまったのではないかと不安に思い、あの世の父にその気持ちを打ち明けていました。もうひとりの中学生についてですが、祖母といたはずの幼い孫が大きくなったら、彼のようになるかもしれない。この中学生も、小さい頃は祖父といろいろな所に行ったわけです。でも思春期になると、自分のことしか見えない、見えるものしか信じられないようになる。祖父母の愛情は変わらないけど、孫は離れていく。映画のラストには、その失ったものをもう一度たぐり寄せるような意味があります」

 祖母と少年は、対照的な軌跡を描いて同じ地平にたどり着く。迷子になったのは、幼い孫や祖父ではなく、彼らの方だった。しかし、それでドラマが完結してしまうわけではない。この映画では、祖父母と孫の間にいる両親たちが一度も姿を見せない。

「台湾では、三世代同居という考えが根強く、実際にそういう家庭がたくさんあります。それなのに両親が欠落しているのは、真に迷子になったのが両親の世代なのだと言いたかったからです。それは、だいたい私と同じ世代の人たちです。仕事に追われ、経済的な負担も大きために、とても子供の面倒は見られないし、老人の世話をすることもできない。私も、父が亡くなるときに、ちょうど『台北ソリチュード』と『Hole』を撮っていて、とても忙しく、父の面倒をちゃんと見ることができませんでした。そういう思いがあります」

 リー・カンションの父親が亡くなったのは、『Hole』の撮影に入る直前だった。そういう時期に演技に専念することは、精神的にたいへんな負担だったのではないだろうか。

「父はとても厳しい人でした。ですから父に対しては、近づきがたいような、少し距離を置かなければいけないような気持ちもありましたが、父への愛はとても強いものでした。でも、それを面と向かって素直に打ち明けることができませんでした。父を失ってはじめて、自分の心に大きな穴があいたような喪失感を覚えました。撮影のときには、なるべく父のことを考えないようにしたのですが、やはりどうしても考えてしまいました。とても苦しい時期でしたね」


◆プロフィール◆
リー・カンション
1968年台北生まれ。
大学受験のため予備校に通っていた頃、ゲームセンターでツァイ・ミンリャンに見出されたことがきっかけとなりテレビドラマ「小孩」で俳優としてのキャリアをスタートしたリー・カンションは、ツァイ・ミンリャンの映画と人生になくてはならないパートナーとして彼の全作品の主演をつとめている。
そのツァイ・ミンリャン作品の中で、これまで常に寡黙な役柄を演じてきたリー・カンションだが、『楽日』では、なんと映画が終わるまで主演の二人は遂に一言もセリフを喋らない。カンションは画面に現れることさえ少ないが、舞台となる映画館の隅々まで、映写技師である彼の存在が満ち満ちている。ついに彼は「光」に姿を変え、映画のいたるところに現れては消えるイコンと化したかのようだ。
一方『西瓜』では、AV男優という過酷な役柄を与えられ、映画の中でもその試練を二重写しにするかのような過酷なAV撮影現場の悲喜劇が繰り広げられる。そこにはたんに一人の役者としてのみならず、一個の人間として、その全存在を映画に賭けようとするリー・カンションの無為の意志が、確かな底力となって映画に途方もない力を漲らせている。
そして長年ツァイ・ミンリャンとコラボレーションを続けてきた彼は、ついに『迷子』で監督としての才能を開花させ、ロッテルダム国際映画祭のグランプリにあたるタイガーアワードを受賞した。その映画には愛しい人間達の感情が息づいている。
(『迷子』プレスより引用)
 

 

 

 

 『迷子』のなかで祖母は、息子のリー・カンションに連絡をとろうとするが、どうしてもつかまらない。この映画には、祖母や少年の喪失感とともに、リー・カンションの世代、そして何よりも彼自身の喪失感が描き出されているのだ。

 一方、俳優リー・カンションは、ツァイ・ミンリャンとのコラボレーションを通して、変貌を遂げ、成長をつづけている。『楽日』と『西瓜』では、まったく違うリー・カンションを見ることができる。

「『楽日』の場合は、『迷子』の準備をしている時期だったので、私の出番はあまり多くありません。映画の最後に登場する映写技師という役で、いままさに消えようとしている映画館とともに失われていく存在です。監督は、この人物を精神的な象徴として描いていたと思います。私はそのようにとらえ、精神というものを重視して演技しました。『西瓜』の場合は、AV男優の役で、かなり難しいものがありました。まず、裸体を晒し、身体で演じなければならないので、トレーニングジムに通い、一生懸命に肉体を鍛えました。それから、潔く裸になって演技するために、心理的な思い切りも必要でした」

 それでは、監督としても評価された彼は、これからどういう方向に進もうとしているのだろうか。

「いまはどちらかというと、監督の方に向かいたいという気持ちが強いですね。台湾のマーケットとか、私が出演するような映画とか、自分を取り巻く環境を考えても、作り手の方に回らざるを得ない状況があります。長編の二作目が九月にクランクインの予定で、いま準備を進めているところです。私のオリジナル脚本で、台湾社会の現実が私にこの脚本を書かせたともいえます。台湾社会は、すごく功利主義的で、利己的で、文化というものを軽視していると思います。映画の主人公は株屋で、とてもセクシーな格好をしたビンロウ売りの女性と“SOS”という命のホットラインで働く女性が登場します。株屋の男は、最初は景気がいいのですが、株が大暴落して借金まみれになり、麻薬にも手を出す。これではだめだと思った彼は、命のホットラインの女性に精神的な慰めを、ビンロウ売りの女性に肉体的な慰めを求めようとする。少しファンタスティックな要素のある作品です」


(upload:2007/12/24)
 
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