ツァイ・ミンリャン作品の顔として独特の存在感を放ってきた俳優リー・カンション。彼の初監督作品『迷子』は、その導入部に大きな見所が用意されている。ルー・イーチン扮する祖母が半狂乱になって孫を探す姿を長回しでとらえ、ドキュメンタリーに近い緊張感を生み出しているのだ。
「ここは映画の方向を明確にする非常に重要な場面です。ルー・イーチンが探すのは孫ですが、それだけではなく、観客に、人が何かをひたすら探しつづけるという世界に入り込んでもらうために、この場面を撮りました。ルー・イーチンと接触する人たちは、すべてたまたまそこにいた人たちです。カメラは、彼女がどこに行っても撮れるように、公園のなかで丘のようになっている場所に置き、スタッフは少し離れた場所で待機しました。カメラを置きっ放しにしておくと、人はそれが最初からあるものだと思って、あまり意識しなくなるので、それから撮り始めました。撮影はうまくいったんですが、彼女と接触する人たちの声を拾うのが難しかった。そのため、ポスプロで音の処理にかなり時間がかかりました。部分的に後から吹き替えてもいます」
この映画では、その祖母と中学生の少年のドラマが、並行して描かれていく。祖母は公園を飛び出し、バイクの運転手や行商人を巻き込み、亡夫にまで救いを求める。一方、少年は、祖父の姿が見えないことを気にもとめず、インターネットカフェでゲームに熱中し、席を外した仲間が戻ってこないことに気づいても、行動を起こそうとはしない。
「あの祖母は、私の母がヒントになってます。母は、兄の子の面倒をきちんと見られないのではないか、年を取って役立たずになってしまったのではないかと不安に思い、あの世の父にその気持ちを打ち明けていました。もうひとりの中学生についてですが、祖母といたはずの幼い孫が大きくなったら、彼のようになるかもしれない。この中学生も、小さい頃は祖父といろいろな所に行ったわけです。でも思春期になると、自分のことしか見えない、見えるものしか信じられないようになる。祖父母の愛情は変わらないけど、孫は離れていく。映画のラストには、その失ったものをもう一度たぐり寄せるような意味があります」
祖母と少年は、対照的な軌跡を描いて同じ地平にたどり着く。迷子になったのは、幼い孫や祖父ではなく、彼らの方だった。しかし、それでドラマが完結してしまうわけではない。この映画では、祖父母と孫の間にいる両親たちが一度も姿を見せない。
「台湾では、三世代同居という考えが根強く、実際にそういう家庭がたくさんあります。それなのに両親が欠落しているのは、真に迷子になったのが両親の世代なのだと言いたかったからです。それは、だいたい私と同じ世代の人たちです。仕事に追われ、経済的な負担も大きために、とても子供の面倒は見られないし、老人の世話をすることもできない。私も、父が亡くなるときに、ちょうど『台北ソリチュード』と『Hole』を撮っていて、とても忙しく、父の面倒をちゃんと見ることができませんでした。そういう思いがあります」
リー・カンションの父親が亡くなったのは、『Hole』の撮影に入る直前だった。そういう時期に演技に専念することは、精神的にたいへんな負担だったのではないだろうか。
「父はとても厳しい人でした。ですから父に対しては、近づきがたいような、少し距離を置かなければいけないような気持ちもありましたが、父への愛はとても強いものでした。でも、それを面と向かって素直に打ち明けることができませんでした。父を失ってはじめて、自分の心に大きな穴があいたような喪失感を覚えました。撮影のときには、なるべく父のことを考えないようにしたのですが、やはりどうしても考えてしまいました。とても苦しい時期でしたね」
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