蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)監督は、『青春神話』と『愛情萬歳』の二作品で、大都市台北を舞台に、人間の孤独と愛の不毛を独自の感性とスタイルで掘り下げてきた。新作の『河』は、その2作品につづく三部作の完結編になる。
主人公は、三部作の軸となる若者シャオカンと彼の両親。この一家は、同じ家に暮らしながら、それぞれに自分の世界にこもり、欲望のはけ口を求め孤独に苛まれている。
ところがシャオカンが原因不明の首の痛みに襲われたことから、その関係が変化していく。台詞をできる限り排除し、閉塞的な空間のなかでうごめく感情を浮き彫りにしていく彼のスタイルは前作「愛情萬歳」ですでに確立されているが、この新作ではそのさらなる発展を見ることができる。
――新作の『河』は、前作の『愛情萬歳』と一見スタイルが似ているように見えますが、『河』の場合には、登場人物の肉体を凝視しているというか、徹底して肉体を描きながら、肉体から感情が滲み出してきて、肉体がすべてを語っているような印象を受けるのですが、蔡監督はそうした肉体への視点をどのように考えていますか。
「『愛情萬歳』のときには、まず台湾に生きる何人かの若者がいて、彼らの行動を追っていくなかで、その心が垣間見えるという感じでした。『河』でなにが変わったかというと、まず個人が先にあって、その重みを増しています。私は、家族ひとりひとりの心の襞へと入っていくような気がしました。人間の一番プライベートな部分、影の部分に関心があり、そこに入っていきたいと思っていました。そういうものが、肉体で表現されることに通じたのではないでしょうか」
――主人公のシャオカンは、なぜか首が曲がり、病院に行って治療を受けます。一方、母親は、ポルノ・ビデオの業者と付き合っています。この映画には、治療やセックスなど、様々なかたちの肉体の触れ合いが描かれ、肉体が触れ合うことの意味を掘り下げようとしているところがあるように思うのですが。
「その質問で思い出したことがあります。編集で切ってしまったので、観客には観ることはできませんが、シャオカンがある学校のようなところに行って、集団治療を受ける場面がありました。それは気功のようなものだと思うのですが、座っているシャオカンに背後からいろいろな人たちが触れるのです。自分では、そういうカットが多すぎると思い、切ってしまいました。シャオカンは、人に触れられることを浴していたのかもしれません。彼はすごく孤独で、もしかするとなにか反抗したいという気持ちがあって、それが首の病気に繋がっていたのかもしれません。
ポルノ・ビデオのエピソードは、もっとストレートな暗示になっていると思います。あの家族は、各自が問題を抱えていて、家族なのにそれぞれに自分の部屋にこもっている。たとえば、母親が部屋にこもって、自分の恋人が商売にしているポルノ・ビデオを観ている。それにつづくカットでは、シャオカンが肉の棒のようなものでマッサージをしている。では父親はといえば、雨漏りしているような部屋で、タオルを引っかぶって寝込んでいる。このビデオや雨漏りする水は、欲望を暗示しています。人間の身体に流れている欲望は、抑えがきかず、いつ爆発するかわからない。台湾では、ポルノ・ビデオというのはいちおう禁止にはなっていますが、新聞などを見れば広告が並んでいる。それくらい普遍的な商売で、欲望と同じで、表面的には抑圧されているけれども歯止めがきかない。私はビデオからそういうことを連想するので、母親の恋人をポルノ・ビデオの販売業者にしたのです」
――父親とシャオカンが身体を重ねる場面というのは、緊張をはらむのは当然なのですが、一方では、ある種の解放を感じます。肉体というのは、それがセックスであれ治療であれ、様々な約束事に縛られているところがあります。シャオカンの父親は、息子の病をなんとかしてやりたいと思っていますが、彼にできることはせいぜいバイクに乗ったときに彼の頭を支えるくらいです。でも、あの場面では、そうした約束事から解き放たれているように思えます。
「本当によくわかります。私にとっては、サウナにおけるあのセックスというのは、バイクで父親が息子の首を支えるのとある意味では同じレベルにあり、同じようなことを語っているのです。要するにそれは、性を超えたというか、同性愛がどうのこうのという次元を超えたところで、すごく孤独なふたつの身体が抱き合うことができたということです。最も人間的で、本質に近いというか、原点的なものがそこにあるのではないかと思います。私はそれを、すごくシンプルな関係として表現してみたかった。人間というのは、道徳的な価値観や自分を縛る自我などによって、社会的に複雑な存在になってしまい、息ができなくなっている。そこで、最もシンプルなかたちで、そうした枠組みを壊し、なにかを表現するというのが、今回の作品で目指していたことではないかと思います」
――これまでの2作品も含め、あなたの作品の登場人物たちは、一方では匿名的な立場に身を置くようにしながら、心のなかでは激しく繋がりを求めています。父親とシャオカンが、お互いに匿名的な存在として触れ合う場面には、三部作を完結させるためには、ここまでいかなければならないという必然性を感じます。
「現代人は、面倒くさがっているところがあると思います。本当は愛情を渇望しているのに、人を愛することにはそれなりの面倒や骨折りがある。だから、愛することは後回しにして、とりあえずは性の部分だけで自分の欲望を処理しようとする。そしてだんだんそれに慣れて、麻痺していく気がします。だから、本当は人から愛されているのにそれに気づかなかったり、愛したいという気持ちはあるのにどうやって愛していいかわからない。私の映画に出てくるセックス・シーンというのは、ほとんどの場合、あまり楽しそうではありません。自分の欲望だけを解決して、相手のことを考えない利己的な性行為です。特に『河』には、最も楽しくないはずの性行為があります。たとえば、サウナで父親が浮気をする場面では、自分と相手が求めるセックスが違うために、途中で充たされないまま出ていってしまいます。父親とシャオカンのセックスは、社会の道徳から見れば抹殺されるべき行為ではあるのですが、そこまで追い詰めてみてはじめて、自分や人の心に気づくこともあるのではないかと思います」
――だいたい20歳くらいで台湾に来られたと思うのですが、台湾育ちの人間とは違う異邦人の眼差しが、独自のスタイルに繋がっているところがあると思いますか。
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