蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)インタビュー 01
Interview with Ming-liang Tsai 01


1998年 青山
河/河流/The River――1997年/台湾/カラー/115分/ヴィスタ
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(初出:日本版「Esquire」1998年9月号、大幅な加筆)

性を超えるシンプルで本質的な関係を求めて
――『河』(1997)

 蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)監督は、『青春神話』『愛情萬歳』の二作品で、大都市台北を舞台に、人間の孤独と愛の不毛を独自の感性とスタイルで掘り下げてきた。新作の『河』は、その2作品につづく三部作の完結編になる。

 主人公は、三部作の軸となる若者シャオカンと彼の両親。この一家は、同じ家に暮らしながら、それぞれに自分の世界にこもり、欲望のはけ口を求め孤独に苛まれている。

 ところがシャオカンが原因不明の首の痛みに襲われたことから、その関係が変化していく。台詞をできる限り排除し、閉塞的な空間のなかでうごめく感情を浮き彫りにしていく彼のスタイルは前作「愛情萬歳」ですでに確立されているが、この新作ではそのさらなる発展を見ることができる。

――新作の『河』は、前作の『愛情萬歳』と一見スタイルが似ているように見えますが、『河』の場合には、登場人物の肉体を凝視しているというか、徹底して肉体を描きながら、肉体から感情が滲み出してきて、肉体がすべてを語っているような印象を受けるのですが、蔡監督はそうした肉体への視点をどのように考えていますか。

「『愛情萬歳』のときには、まず台湾に生きる何人かの若者がいて、彼らの行動を追っていくなかで、その心が垣間見えるという感じでした。『河』でなにが変わったかというと、まず個人が先にあって、その重みを増しています。私は、家族ひとりひとりの心の襞へと入っていくような気がしました。人間の一番プライベートな部分、影の部分に関心があり、そこに入っていきたいと思っていました。そういうものが、肉体で表現されることに通じたのではないでしょうか」

――主人公のシャオカンは、なぜか首が曲がり、病院に行って治療を受けます。一方、母親は、ポルノ・ビデオの業者と付き合っています。この映画には、治療やセックスなど、様々なかたちの肉体の触れ合いが描かれ、肉体が触れ合うことの意味を掘り下げようとしているところがあるように思うのですが。

「その質問で思い出したことがあります。編集で切ってしまったので、観客には観ることはできませんが、シャオカンがある学校のようなところに行って、集団治療を受ける場面がありました。それは気功のようなものだと思うのですが、座っているシャオカンに背後からいろいろな人たちが触れるのです。自分では、そういうカットが多すぎると思い、切ってしまいました。シャオカンは、人に触れられることを浴していたのかもしれません。彼はすごく孤独で、もしかするとなにか反抗したいという気持ちがあって、それが首の病気に繋がっていたのかもしれません。

 ポルノ・ビデオのエピソードは、もっとストレートな暗示になっていると思います。あの家族は、各自が問題を抱えていて、家族なのにそれぞれに自分の部屋にこもっている。たとえば、母親が部屋にこもって、自分の恋人が商売にしているポルノ・ビデオを観ている。それにつづくカットでは、シャオカンが肉の棒のようなものでマッサージをしている。では父親はといえば、雨漏りしているような部屋で、タオルを引っかぶって寝込んでいる。このビデオや雨漏りする水は、欲望を暗示しています。人間の身体に流れている欲望は、抑えがきかず、いつ爆発するかわからない。台湾では、ポルノ・ビデオというのはいちおう禁止にはなっていますが、新聞などを見れば広告が並んでいる。それくらい普遍的な商売で、欲望と同じで、表面的には抑圧されているけれども歯止めがきかない。私はビデオからそういうことを連想するので、母親の恋人をポルノ・ビデオの販売業者にしたのです」

――父親とシャオカンが身体を重ねる場面というのは、緊張をはらむのは当然なのですが、一方では、ある種の解放を感じます。肉体というのは、それがセックスであれ治療であれ、様々な約束事に縛られているところがあります。シャオカンの父親は、息子の病をなんとかしてやりたいと思っていますが、彼にできることはせいぜいバイクに乗ったときに彼の頭を支えるくらいです。でも、あの場面では、そうした約束事から解き放たれているように思えます。

「本当によくわかります。私にとっては、サウナにおけるあのセックスというのは、バイクで父親が息子の首を支えるのとある意味では同じレベルにあり、同じようなことを語っているのです。要するにそれは、性を超えたというか、同性愛がどうのこうのという次元を超えたところで、すごく孤独なふたつの身体が抱き合うことができたということです。最も人間的で、本質に近いというか、原点的なものがそこにあるのではないかと思います。私はそれを、すごくシンプルな関係として表現してみたかった。人間というのは、道徳的な価値観や自分を縛る自我などによって、社会的に複雑な存在になってしまい、息ができなくなっている。そこで、最もシンプルなかたちで、そうした枠組みを壊し、なにかを表現するというのが、今回の作品で目指していたことではないかと思います」

――これまでの2作品も含め、あなたの作品の登場人物たちは、一方では匿名的な立場に身を置くようにしながら、心のなかでは激しく繋がりを求めています。父親とシャオカンが、お互いに匿名的な存在として触れ合う場面には、三部作を完結させるためには、ここまでいかなければならないという必然性を感じます。

「現代人は、面倒くさがっているところがあると思います。本当は愛情を渇望しているのに、人を愛することにはそれなりの面倒や骨折りがある。だから、愛することは後回しにして、とりあえずは性の部分だけで自分の欲望を処理しようとする。そしてだんだんそれに慣れて、麻痺していく気がします。だから、本当は人から愛されているのにそれに気づかなかったり、愛したいという気持ちはあるのにどうやって愛していいかわからない。私の映画に出てくるセックス・シーンというのは、ほとんどの場合、あまり楽しそうではありません。自分の欲望だけを解決して、相手のことを考えない利己的な性行為です。特に『河』には、最も楽しくないはずの性行為があります。たとえば、サウナで父親が浮気をする場面では、自分と相手が求めるセックスが違うために、途中で充たされないまま出ていってしまいます。父親とシャオカンのセックスは、社会の道徳から見れば抹殺されるべき行為ではあるのですが、そこまで追い詰めてみてはじめて、自分や人の心に気づくこともあるのではないかと思います」

――だいたい20歳くらいで台湾に来られたと思うのですが、台湾育ちの人間とは違う異邦人の眼差しが、独自のスタイルに繋がっているところがあると思いますか。


◆プロフィール
ツァイ・ミンリャン
1957年マレーシア・ボルネオ島クチン生まれ。1977年に台湾に渡り、1980年台北の文化大学演劇科に入学。彼の驚くべき才能はいちはやく注目され、「速食酢醤●」(1981)や「黒暗中―扇打不開的門」(1982)、「房間裡的衣櫃」(1983)といったデッドパン・ユーモアに溢れた舞台脚本が高い評価を受けた。特に、都会の孤独を鮮烈に描いた「房間裡的衣櫃」で彼は、監督・脚本・主演をこなし評判を呼んだ。そのテーマは彼のその後の作品群の傾向を決定づけるようなものであった。
舞台の仕事を続けている間に蔡明亮は映画の脚本を書き始め、台湾で最も将来性のある脚本家、そしてテレビドラマの演出家となる。脚本の主な仕事には『ある日の騒動』(1985)、『逃亡』(1984)、「陽春老?」(1986)などがある。また批評家から絶賛を受けた『海角天涯』(1990)、「給我一個家」(1991)、「麗香的感情線」(1991)、「小孩」(1991)といったTVの仕事は、その後の映画への取り組みの大いなる土台となった。特に『海角天涯』と「小孩」は香港、バンクーバー、ロッテルダムなど多くの国際的な映画祭でも上映されている。
彼は、都会に生きる若者の失意を描いた映画監督デビュー作品『青春神話』(1992)で、東京国際映画祭ヤングシネマ部門のブロンズ賞や、ワイワン国内の中時晩報電影奨最優秀作品賞を受賞した。その後もベルリン国際映画祭のパノラマ・スペシャル部門で上映、また国際的な映画祭と多くの評論家の間で高い評価を得た。以降、第二世代・台湾ニューシネマの中心人物として国際的に注目を浴びている。
2作目の『愛情萬歳』(1994)では、ヴェネチア国際映画祭にて金獅子賞を受賞した。この作品は悲劇と喜劇の要素を併せ持つ、光放つほどの創意と美しい演出が見事な映画で、彼の作家としてのスタイルとテーマが凝縮されている。台湾という都会のひずみと孤独が、蔡明亮の鋭い観察力によって細密画のように描かれている。
『愛情萬歳』の後、1994年に久しぶりの演劇「公萬春光外洩」を演出した。彼はその後HIV感染者を撮ったテレビ・ドキュメンタリー作品「我新認識的朋友」を手掛けた。その作品はその後、多くの映画祭で上映されている。 1997年ベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞した『河』は、台湾社会の家族の問題にメスを入れた大胆かつ斬新な作品である。スタイリッシュで知的なテーマが、蔡明亮の新たなる才覚の発揮を予感させている。
(『河』プレスより引用)
 
―河―

◆スタッフ◆
 
監督   ツァイ・ミンリャン(蔡明亮)
Tsai Ming-liang
脚本 ツァイ・ミンリャン、ヤン・ピーイン、ツァイ・イーチェン
Tsai Ming-liang, Yang Pi-ying, Tsai Yi-chun
製作 チャン・フーピン
Chung Hu-pin
プロデューサー シュー・リーコン、チウ・シュンチン
Hsu Li-Kong, Chiu Shun-Ching
撮影監督 リャオ・ペンロン
Liao Pen-jung
編集 チェン・シェンチャン、ライ・チェンチン
Chen Sheng-Chang, Lei Chen-Ching
 
◆キャスト◆
 
シャオカン   リー・カンション(李康生)
Lee Kang-sheng
ミャオ・ティエン(苗天)
Miao Tien
ルー・シアオリン(陸筱琳)
Lu Yi-Ching
サウナの若い男 チェン・チャオロン(陳昭榮)
Chen Chao-jung
シャオカンの女友だち チェン・シアンチー(陳湘h)
Chen Shiang-chyi
監督 アン・ホイ(許鞍華)
Ann Hui
ホテルの隣室に来た女 ヤン・クイメイ(楊貴媚)
Yang Kuei-Mei
-
(配給:ユーロスペース)
 

「大学を出て、創作活動をはじめてから10年以上になります。生まれがマレーシアで、年に一度か二度は故郷に帰ります。要するに、出入りをしている。だから台湾生まれかどうかは別として、長く同じ場所にいる人に比べると、ものを見る目が多少冷静かなという気はします。ただ個人的には、台湾の他の監督との違いは、そうした背景よりも、自分のパーソナリティ、性格によるところが大きいように思います。私は、政治的なことに口を突っ込むのがあまり好きではないし、歴史の勉強もあまりしません。私のテーマは、自分が生きている生活のなかから出てくる。だから、すごくプライベートで、そこが違うのではないでしょうか」

――これは政治的ということになってしまいそうですけど。台湾というのは限りなく独立に近い状況にありながら、先行きは不透明で、経済だけが成長を遂げてきたところがあります。そういう閉塞感が、あなたの映画の世界の閉塞感とどこかで通じていると思いますか。

「それは本当にあると思います。個人の生活というのは社会と絶対に切り離せないので、社会環境の気配というのが自分の作品の気配に影響するのは間違いないと思います。それは、私が興味を持たない政治とは少し違います。政治を語るのが大好きな人が私の映画を観ると、この父親は大陸出身者であろうとか、台湾出身者を象徴しているとか、いろいろ解説を加えてくれるのですが、私自身はまったくそういうことを考えていないのです。でも、環境がどのような状態であるのかは必ず個人に影響してくるはずで、私はそれを撮っています」

――この三部作で、母親はしばしば宗教にすがるのですが、どうもその関係には不安定なものを感じるのですが。

「たぶん、こうではないかなということをお話します。私の映画に出てくる宗教というのは、ほとんど道教系なんですね。それも、私たちが一般に考えるものよりも土着的な道教です。それは、非常に功利的な宗教で、たとえば、「先生、私が落としてしまった財布はどこにいってしまたのでしょうか」という感じです。仏教であれば、自分の心の平安を求めるところがありますが、彼女たちは常に具体的なものを求める。しかも、神様も具体的に応えてくれるというのが、道教のすごいところですが、そういうものを撮りながら、それで精神が安定するはずがないと感じます。だから、不安定に見えるというのは、ある意味で、当たっているのではないかと思います」


(upload:2007/12/24)
 
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