筆者はこの映画を観て、実は蔡明亮のスタイルはほとんど完成したもののように思っていた。だが、『河』を観てそれが大きな間違いであったことを思い知らされた。『河』の設定は、シャオカンと両親の家族の物語という意味では『青春神話』の人物設定を引き継いでいるが、彼らは『愛情萬歳』のように同じ閉塞的な空間を共有するだけの限りなく他人に近い存在として映画に登場し、それぞれの世界を生きている。そこで、映画のスタイルということでいえば、『河』は一見したところ『愛情萬歳』とそれほどかわりがないように見えるが、実はまったく違うということが次第に明らかになる。
蔡明亮はこの映画でまず何よりも登場人物たちの肉体を凝視する。シャオカンは少女と出会ったことがきっかけとなり、映画の撮影のために水死体となって汚れた河に浮くことを引き受ける。水死体に見せかけようとした人形がどうしてもそれらしく見えないためであり、そこで観客は生死はともかくとして本物の肉体の重みや感触というものを自然と意識することになる。
シャオカンは汚れた河の臭いを消すために何度もシャワーを浴び、少女とのセックスはその肉体の営みだけが淡々と映しだされる。場面が変わると今度は、バスタオルを巻いた男の肉体が延々と映しだされる。観客の関心は、最初はその肉体の持ち主の正体に向かうが、そんなことがどうでもよくなり、ただそこにある肉体を見つめようという心の準備ができた頃に、男はおもむろに顔を上げる。この映画では、主要な三人の登場人物が家族であるということがわかる以前に、観客は彼らの肉体、その重みや感触を意識しているに違いない。
『愛情萬歳』ではそこまで肉体を意識することはない。なぜなら映画の冒頭で、シャオカンがマンションの扉に差し込まれたままになっている鍵を抜き取ったり、バスルームのなかでナイフで手首を切ろうとする行為には、彼の意思や感情が先にたっているからだ。『河』のシャオカンは映画の終盤近くまでほとんど受動的な立場をとりつづけるが、それは蔡明亮がこの映画で何よりも肉体を見つめようとすることと無関係ではないだろう。
この肉体を見つめる作業は、最初のうちはひどく単調なことのようにみえるが、シャオカンが原因不明の首の痛みに襲われたのをきっかけとして、登場人物たちの肉体からは別の意味が広がっていくことになる。
両親はシャオカンのこの痛みを何とかしようと、祈祷師や医者、整体師やマッサージ師のところに連れていく。それぞれの専門家たちは、シャオカンの肉体に触れ、治療を試みようとする。それは治療であると同時に、肉体に触れるという行為でもある。そして、この映画ではシャオカンの治療以外にも肉体に触れる行為が描かれる。父親は、サウナの暗い個室のなかに横たわり、触れられるのを待っている。母親は、裏ビデオの宅配業者である愛人の部屋で、裏ビデオの男女の絡みを見て、ソファで居眠りする愛人に触れようとする。
もちろん、同じ肉体に触れることであってもその意味は違う。整体師やマッサージ師は、治療という約束事に則って患者の肉体に触れている。母親と愛人、父親とゲイの男たちもセックスという約束事に則ってお互いの肉体に触れる。しかしながら、映画の冒頭から純粋に肉体を見つめる準備ができている観客にとっては、そうした約束事は不自然なものにも思えてくるはずだ。それは無意識のうちに肉体が約束事に縛られていることを物語っている。そしてさらに突き詰めれば、彼らの肉体を約束事で縛っているのは感情だといえる。
父親はシャオカンを心配しているからこそ彼を医者や整体師のところに連れていく。そんな彼自身ができることといえば、バイクに乗るシャオカンの頭を支えることぐらいだ。息子への想いはあるが、その感情と肉体が約束事に縛られ、それ以上彼に触れることができないのだ。そんな彼らが、露店で食卓を囲むシーンは非常に印象に残ることと思う。家のなかでまったく食卓を囲むこともない彼らが食卓を囲むとき、そこには奇妙な緊張が漂っている。父親は戸惑いながら息子に料理をすすめるが、息子は首の痛みゆえにそれを満足に食べることができない。この場面をみると、もはやシャオカンの首の痛みが決して肉体の病などではないことがわかる。それぞれに絆を失い孤独に苛まれる家族は、心を開くのではなく、肉体を約束事で縛ることで、別々の世界に逃れようとしているのだ。
蔡明亮は、ほとんど登場人物の肉体だけを描きながら、その肉体を縛っている彼らの感情を描きだしてしまう。そしてこの肉体に向けられた鋭い眼差しが、サウナで父親とシャオカンが身体を重ねることの意味を奥深いものにするのだ。いうまでもなくそこには、近親相姦というタブーを犯すことによる緊張感が漂っている。しかしながら同時に不思議な安らぎを確かに感じることができる。それは、純粋に肉体を見つめる眼差しが、彼らを家族やセックスという束縛から解放し、肉体と感情の根源的な有り様を呼び覚ますからに他ならない。
そしてもうひとつ筆者が強く感じるのは、『青春神話』以来、自己を匿名的な立場においたところで触れ合いを渇望する人間の姿を描いてきた蔡明亮にとって、登場人物をそんな幻影から解き放ち、ひとつの答を出すためには、この展開が絶対に避けられないものであったに違いないということだ。父親と息子は、お互いに匿名的な存在として身体を重ね、相手の正体を知ったときには激しいショックを受けるが、しかし同時に遥か昔に失ってしまった触れ合うことの確かな感触を身体に刻み込む。それゆえにこの映画のラストには、希望を感じることができる。
蔡明亮の映画は、台北に限らず高度経済成長をとげ、過剰な消費社会の歪みが露呈しつつある世界に当てはまる普遍性を持ち合わせていることはいうまでもない。だが、もう一方でその普遍性が台湾の特殊性から導き出されているという事実も無視するわけにはいかない。彼はきわめてプライベートな視点から世界を構築していくために、そうした繋がりを感じさせないが、彼の世界は台湾の状況と確実に結びついている。
台湾は、87年の戒厳令解除から目覚しい勢いで民主化を実現していった。それはもちろん非常に望ましいことではあるが、こうした展開をあらためて振り返ってみるなら、逆に国民党政権というものが、自分たちが全中国の代表で、台北は大陸に戻るまでの臨時首都であるというような“裸の王様”同然の体制をそこまで維持してきたことに驚きをおぼえもする。しかも、裸の王様からは脱皮したとはいえ、明確な決着がついたというわけではない。つまり、政治的には限りなく独立に近い体制に移行しつつも大陸中国の先行きが不透明であるために、現状維持を余儀なくされている。そんな政治状況を尻目に、経済だけがどんどん発展し、消費社会が拡大してしまっているというわけだ。
民主化が実現したことで、台湾では映画も含めてこれまでの歴史を見直そうとする動きも広がったが、若い世代にとってそうした歴史に対する意識は薄れつつあるという。蔡明亮がこの三部作を通して見つめてきたのは、そうした若い世代の存在だといえる。シャオカンは、そんな政治的には現状維持で経済だけが発展していく閉塞状況のなかを生きる若者を象徴しているように見えるが、同時に彼は異邦人でもある。というのも三部作を通して彼のセクシュアリティは常に揺れ動き、それゆえに彼は自己を匿名的な立場に置く孤独な旅をつづけ、この『河』ではその肉体と感情を突き詰めることによってささやかな希望を見出すことになるからだ。
国家でも政治でも歴史でもなく、孤立する個人の肉体と内面を掘り下げたところに自分の本来の姿、アイデンティティを見極めようとするところに蔡明亮の魅力があるのだ。 |