トロッコ


2009年/日本/カラー/116分/アメリカンヴィスタ/ドルビーデジタル
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(初出:「キネマ旬報」2010年6月上旬号、若干の加筆)

日本と台湾、過去と現在の狭間で
トロッコに集約された家族の絆と複雑な思い

■■台湾に残っていたトロッコが映画の核になる■■

 誰もが知っている芥川龍之介の短編を映画化した川口浩史監督の長編デビュー作『トロッコ』は、まず何よりも幸運な巡り合わせと豊かな想像力によって生み出された作品といえる。

 教科書で読んだ「トロッコ」に感銘を受けた川口監督は、日本中を回ってトロッコの線路を探したが見つからなかった。そんな彼に、台湾にまだトロッコが残っていることを教えたのが、『春の雪』(05)で一緒に仕事をした撮影監督リー・ピンビンだった。川口監督は当初、トロッコのシーンだけを台湾で撮影するつもりだったが、ロケハンで台湾を訪れ、日本語を話す老人たちと交流を深めていくうちに考えが変わった。そして、台湾を舞台にした家族の物語が誕生した。

 台湾人の父親と日本人の母親の間に生まれ、東京で育った8歳の敦と6歳の凱(とき)の兄弟は、母親・夕美子に連れられて初めて台湾の小さな村を訪れる。急死した父親・孟真(もうしん)の遺灰を届けるためだ。実家には、祖父母と台北から来た叔父夫婦が待っていた。そして、父親の死から立ち直れずにいた母子は、彼らに囲まれてひと夏を過ごすうちにそれぞれに心を開き、失いかけていた絆を取り戻していく。

 原作の「トロッコ」は非常に短い。それを長編として映画化しようとすれば、人物や設定、エピソードを盛り込んでいくうちに、焦点がぼやけてしまうこともあり得る。だがこの映画では、川口監督が探し求めたトロッコが核となり、原作の物語が新たな意味を持って見事に膨らんでいく。昨年(2009年)公開された酒井充子監督のドキュメンタリー『台湾人生』では、日本の統治下で教育を受けた日本語世代の老人たちの複雑な思いが描き出されていたが、そんな思いが実に巧みにトロッコに結び付けられているのだ。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   川口浩史
原作 芥川龍之介
脚本 ホアン・シーミン
撮影 リー・ピンビン
編集 小林由加子
音楽 川井郁子
 
◆キャスト◆
 
矢野夕美子   尾野真千子
矢野敦 原田賢人(子役)
矢野凱 大前喬一(子役)
祖父・呉仁榮 ホン・リウ 洪流
叔父・孟堅 チャン・ハン 張翰
叔母・華心 ワン・ファン 萬芳
鳥の青年・振哲 ブライアン・チャン 張睿家
祖母・楊鳳林 メイ・ファン 梅芳
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(配給:ビターズ・エンド)
 

■■一枚の古い写真からトロッコの意味が膨らんでいく■■

 なぜ敦は弟を連れてトロッコに乗るのか。そのきっかけとなるのは、父親が生前に敦に手渡した一枚の古い写真だ。そこに写っているトロッコを押す少年は、戦前の祖父だったことがわかる。写真に触発された祖父は、兄弟に当時のことを日本語で語り出す。線路は切り出した木材を日本に運ぶためのもので、子供の頃の祖父は、それをたどれば日本に行けると思っていた。この祖父の言葉が、やがて別のエピソードと繋がる。ある晩、敦は、祖母と母親の会話を立ち聞きしてしまう。仕事と子育てを両立できずに弱音を吐く母親に、祖母は兄弟をしばらく預かることを提案する。

 自分たちが置き去りにされると思った敦は、弟とトロッコで日本に帰ろうと心に決める。もちろん、それだけなら子供の単純な発想に過ぎない。しかし、敦が知らないところで、トロッコの意味は膨らんでいる。

 ドラマのなかに叔父の孟堅が夕美子に、父親が日本に渡った理由を語る場面がある。祖父は、終戦で日本から捨てられた後も、時代に順応することを拒み、古い価値観を父親や叔父に押し付けた。だが父親は反発を覚えつつも、祖父の思いを受け止め、日本への留学を決めた。彼はトロッコの彼方にある日本に渡り、そこで家庭を築いたといってもよいだろう。そして今度は、祖父の写真に導かれた敦が、日本に向かうためにトロッコに乗ることになる。

■■様々なかたちで日本と台湾を結ぶ象徴的なトロッコ■■

 この映画では、日本と台湾、日本人と台湾人、親と子の関係がすべてトロッコに集約され、トロッコに乗る少年の物語から独自の空間が切り開かれる。敦と凱は、村で出会った親切な青年に手伝ってもらい、トロッコに乗り込む。兄弟は風を切って走るトロッコに歓喜するが、目的を持っている敦と兄についてきただけの凱の興奮は決して同じものではない。

 やがて敦が予想もしていなかった事実が明らかになる。青年が左手を指して、あっちの海の向こうが日本だと説明するのだ。それを聞いた敦は愕然とするが、今さら青年に目的を明らかにすることもできず、トロッコは深い森のなかを進んでいく。しかし、その先に意外な出会いが待ち受けている。青年の祖父が現れ、日本語で兄弟を歓迎する。それは敦が向かった日本ではなかったが、トロッコは確かにもうひとつの日本に繋がっていた。

 もちろん、すでに恐怖に押しつぶされそうになっている敦には、そんなことを考える余裕はない。彼は弟を励ましながら、必死になって来た道を戻るしかない。だが、まだ心の整理がつかない8歳の少年にとって、これは間違いなく重要な記憶になる。芥川の「トロッコ」は、大人になった主人公の回想のかたちで物語が綴られる。この映画に回想の視点はないが、エンディングに漂う余韻がそれを想像させる。

 映画の前半で敦は祖父に、自分が台湾人なのか日本人なのかという素朴な疑問をぶつける。祖父は、大人になって自分で決めることだと答える。敦はいつの日か自分がトロッコを通して父親や祖父と繋がっていたこと、そして台湾と日本の間に単純な線引きなどできないことを理解し、自分が何者なのかという疑問に答えを出すことになるだろう。


(upload:2010/07/05)
 
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