クエンティン・タランティーノ
Quentin Tarantino


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 この違いに興味のある人には、試しに近く公開されるアレックス・コックス監督の『ザ・ウィナー』を観てみることをお勧めする。これはヴェガスを舞台にしたノワールで、大金目当てにひと癖もふた癖もある連中が騙し会いを繰り広げるドラマなのだが、アレックスは、それぞれの人物が出会って相手を丸め込むまでのシチュエーションをほとんどワンカットの長回しで撮っている。それゆえに、背景の空気が当たり前のように映像に取り込まれることになるのである。これは、レナード・タッチを映画的に翻訳するひとつの方法ということができる。

■■他者との境界から生まれたブラックスプロイテーション映画■■

 しかし、これは『ジャッキー・ブラウン』だけではなく『パルプ・フィクション』にも言えることだが、タランティーノは、ドラマの背景というものをたとえば車のなかであるとか室内などの空間にできるかぎり限定しようとする。時代のリアルな空気というものを排除しようとするのだ。些細なことのように思われるかもしれないが、自分と他者というものの認識や距離ということについて考えてみるとき、これは非常に重要なことになる。背景が他者性を浮き彫りにする重要な要素となるからだ。

 たとえば、レナードの『ラム・パンチ』には冒頭の部分に非常に印象的なレナード・タッチがある。日曜日の朝、オデールがルイスをネオナチのデモ行進見物に連れだす。デモを見物しながらオデールはルイスに仕事の話を持ちかけようとするが、ルイスには話が見えない。オデールはその言葉づかいから黒人のように見える。その彼が白人優越主義者たちのデモを横目に何をしようとするのか。そんなわずかニページの話でレナードは読者をこのシチュエーションに引き込んでしまう。すると次のページで、オデールとルイスは、肌の色が薄い黒人と色が黒い白人のコンビであることがわかる。

 レナードは、この人種や肌の色をめぐる微妙な緊張やあやというものを通して、他者というものの存在をしっかり印象づける。しかしタランティーノは、この他者性が浮き彫りになるようなシチュエーションは徹底的に避けるのである。但しもちろん、この場合には、タランティーノが70年代ブラックスプロイテーションのスタイルを生かすために、時代背景が濃厚になる部分は削除したという言い方はできないことはない。しかし、本当にレナードの世界がいいと思うのなら、このレナード・タッチをどんなスタイルのなかにだって生かせるであろうし、生かしたくなるはずだろう。なぜなら、そもそもブラックスプロイテーション・フィルムそのものが、他者性の境界から生まれそれを過剰に表現するものであるからだ。

 タランティーノが敬愛するジャック・ヒルやパム・グリアをカルト的な存在にするエクスプロイテーション・フィルムというのは、何もお色気、暴力、コテコテのファッションなどだけが魅力ではなく、目につくものを見境もなく取り込み、話をでっち上げて暴走していくような凄まじいばかりのバイタリティにあり、その過剰さからはいろいろな意味で他者が浮き彫りになってしまう。

 ジャック・ヒルに関していえば、そのバイタリティが気づいてみれば、説教たらたらのフェミニズムよりも立派なフェミニズムになっていたりする。『コフィ』で、麻薬組織や警察、黒人解放を唱える議員などにひとりで立ち向かうコフィは、彼女の台詞にもちらりと出てくるマチスモ(男性優位)の社会に戦いを挑む女闘士であり、『スウィッチブレイド・シスターズ』の女ギャングたちは、仲間の男たちをインポ呼ばわりして追い出し、女版ブラック・パンサーたちと手を組み、福祉の名の下に子供たちをヤク中にしている極悪非道な男たちに市街戦を挑むのだ。

■■背景がないキャラクターたちの強調■■

 パム・グリアがパム・グリアたる所以は、そんなバイタリティに一歩も引けを取らない存在感にあるわけだが、タランティーノはやはり彼女の偶像だけをいただこうとする。これは何もいまのパム・グリアに往年のアクションをやらせろという意味ではまったくない。背景を見事に取り込むレナード・タッチとあらゆるものを取り込むエクスプロイテーション・フィルムの凄まじいバイタリティに接点を求めれば、自ずと他者性というものが浮き彫りになってしまうはずだということだ。しかし彼は、エクスプロイテーション・フィルムを敬愛しつつその凄まじいバイタリティからは目を背け、レナードを敬愛しつつその世界の重要な要素である背景からは目を背ける。

 そこで当然、タランティーノはオタクだからという意見が出てくるだろう。しかしただオタクでくくってしまうのは間違いだ。たとえば彼を、先端を行くもうひとりのオタクであるティム・バートンの世界と比較してみよう。同じオタクでもバートンは、映画のなかで自分と他者の境界や距離を徹底的に追求し、それが独自の世界を構築する。『シザーハンズ』におけるパステル・カラーのサバービアとゴシックそのものの屋敷のコントラストはそれをはっきりと物語る。

 タランティーノがジャック・ヒルを敬愛するのと同じように、バートンは『エド・ウッド』を作ったわけだが、その映画からは、エド・ウッドの凄まじいばかりのバイタリティと、さらに涙なしには見られないベラ・ルゴシのドラマも含めて他者との境界というものが強烈に印象づけられることになる。そして、『ジャッキー・ブラウン』のパム・グリアはブラックスプロイテーション・フィルムの女王の偶像だが、『マーズ・アタック』のパム・グリアは、バートンの他者へのこだわりが反映され、偶像ではなく生身の存在としてブラックスプロイテーションの延長を生きている。

 要するに、タランティーノが描く人物は一見過剰に見えるが、それは背景がないにもかかわらずキャラクターだけが強調されるからだ。彼らはタランティーノのフィルターを通過すると極端ではあるが無味無臭の存在に変貌するのだ。だからたとえば、『ジャッキー・ブラウン』のなかでサミュエル・L・ジャクソンが“ニガー”を連発することに対してスパイク・リーがクレームをつけても、これはお門違いというか、どうにもならないことなのだ。スパイクの『ゲット・オン・ザ・バス』で途中からバスに乗り込み、ニガーを連発したために叩き出される黒人のセールスマンとはわけが違う。ジャクソンのオデールは何の背景も引きずっていない無味無臭の虚像であって、もちろんその言葉にはスパイクが神経質になるような感情は何も反映されていない(厳密にはだからこそ問題なのではあるが…)。



―ジャッキー・ブラウン―

 Jackie Brown
(1997) on IMDb


◆スタッフ◆

監督/脚本   クエンティン・タランティーノ
Quentin Tarantino
製作

ローレンス・ベンダー
Lawrence Bender

原作 エルモア・レナード
Elmore Leonard
撮影

ギジェルモ・ナヴァロ
Guillermo Navarro

編集 サリー・メンケ
Sally Menke

◆キャスト◆

ジャッキー・ブラウン   パム・グリア
Pam Grier
オデール・ロビー   サミュエル・L・ジャクソン
Samuel L. Jackson
マックス・チェリー   ロバート・フォスター
Robert Forster
メラニー・ラルストン   ブリジット・フォンダ
Bridget Fonda
レイ・ニコレット   マイケル・キートン
Michael Keaton
ルイス・ガーラ   ロバート・デ・ニーロ
Robert De Niro
マーク・ダーガス   マイケル・ボーウェン
Michael Bowen
 
(配給:松竹富士)
 
 


 バートンは他者性ゆえにきわめて閉塞的な世界を構築し、他者性によってそれを突き抜けようとする。そこにダイナミズムが生まれる。しかし、タランティーノには、他者という認識の基盤になる背景としての世界が完全に欠落している。それはある意味で彼が先端を走っていることを意味する。背景がない世界、それゆえに他者性が希薄な登場人物、極端で過剰ではあるがまったく生々しくないセックス、暴力、アクション、レアな音楽の数々。ここには現代社会が奇妙なかたちで凝縮されているからだ。

 しかしそれを楽しめるかといえば、筆者は楽しめない。世界がないことほど不気味な閉塞感はない。正直なところけっこう恐いと思っているのだが、彼の映画が欧米に比べて特に日本で評価と人気が得られるのはよくわかる。ここでは極端に均質化が進み、背景となる歴史が失われ、他者というものに対する認識が確実に欠落しつつあるからだ。

 しかし、これが本当にタランティーノの本質なのだろうか。筆者は、もし彼が『トゥルー・ロマンス』と『ナチュラル・ボーン・キラーズ』を自ら監督する望みが叶っていたとしたら、別な道があったようにも思う。特に『ナチュラル・ボーン・キラーズ』のモチーフとなる『地獄の逃避行』にはレス・イズ・モアがあるからだ。現在の世界のないタランティーノをタランティーノにしているのは、オタクというよりも、まさに現代社会そのもののようにも思えてくるのである。

 
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