イングロリアス・バスターズ
Inglorious Basterds


2009年/アメリカ/カラー/152分/シネマスコープ/ドルビーSRD
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(初出:「月刊宝島」2009年12月号、「試写室の咳払い」03、加筆)

 

 

他者性が欠落し、誰もが交換可能な世界

 

 筆者は、クエンティン・タランティーノについては、『レザボア・ドッグス』を除いて基本的に評価していない。その理由は、クエンティン・タランティーノ――背景も他者との境界も欠いた現代を象徴する世界に詳しく書いた。そのタイトルが物語るように、タランティーノには、他者との境界に対する認識が極端に欠落している。新作には、それがこれまで以上に明確に表れている。

 『イングロリアス・バスターズ』の舞台は、ナチス占領下のフランスだ。そこに、ヒトラーやゲッベルスといった実在の人物と架空の主人公たちが入り乱れる、史実を逸脱した異世界が出現する。家族を虐殺されたユダヤ人の女性映画館主、ナチスの殲滅を目指すユダヤ系アメリカ人の秘密部隊イングロリアス・バスターズ=Aそしてイギリス軍の精鋭。彼らは、ナチスのプロパガンダ映画のプレミア上映会を利用し、ナチス高官を一網打尽にしようと目論む。

 この新作でまず印象に残るのは、ナチスとユダヤ人の図式だ。5章から成る物語の1章では、“ユダヤ・ハンター”として恐れられる大佐が、床下に潜むユダヤ人家族を見つけ出し、容赦なく命を奪う。ところが、2章からそんな図式ががらりと変わる。イングロリアス・バスターズは、ナチスを片っ端から容赦なく殺害し、頭の皮を剥いでいく。女性館主も冷酷な復讐の女神へと変貌を遂げる。

 厳密にいえば、図式ががなりと変わるというのは正しくない。この映画では最初から、ナチスの残虐行為は明確には描かれない。1章でも、大佐の部下たちが床下に向かって銃弾の雨を降らせるという表現にとどめられている。これに対して、イングロリアス・バスターズの残虐行為や女性館主の復讐は過剰といえるほど明確に描かれている。

 ナチスを描く映画では、冷酷なナチスと怯えるユダヤ人のイメージが定着している。タランティーノは、意識してその図式を覆してみせる。この映画の舞台は、歴史を逸脱した異世界なので、ナチスとユダヤ人をどのように表現することも可能だが、いずれにしてもそこには他者性に対する作り手の認識が表れる。

 話は少しそれるが、この映画とアリ・フォルマン監督のイスラエル映画『戦場でワルツを』が同時期に公開されることが、筆者には非常に興味深いことに思えた。1982年に起こったイスラエルのレバノン侵攻を題材にした『戦場でワルツを』は、ユダヤ人が犠牲者から加害者に変わる瞬間を掘り下げていく。

 たとえば、ジャーナリストのハコボ・ティママンは『レバノン侵攻の長い夏』のなかで、この戦争の衝撃を以下のように綴っている。「少なくとも過去二千年の間、ユダヤ人は他民族に集団的な損傷を与え、これにたいして罪悪感を抱き、恥じたことはまったくなかったとさえいえる。ディアスポラの間、ユダヤ人はいつも犠牲者だった。これまでの戦いは侵略にたいする自衛手段であり、ユダヤ人のアラブにたいするテロ行為はまったく突発的なものだった。しかも、ほとんどすべてのイスラエル国民から拒まれ、軽蔑された小グループの仕業だった

 また、イスラエル人の作家アモス・オズは『贅沢な戦争 イスラエルのレバノン侵攻』のなかで、「これまでは、私たちが打って出て殺したり殺されたりしたのは、私たちの存在そのものがおびやかされたときにかぎられていました」と書いている。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本/製作   クエンティン・タランティーノ
Quentin Tarantino
製作 ローレンス・ベンダー
Lawrence Bender
撮影監督 ロバート・リチャードソン
Robert Richardson
編集 サリー・メンケ
Sally Menke
 
◆キャスト◆
 
アルド・レイン中尉   ブラッド・ピット
Brad Pitt
ショシャナ・ドレフェス メラニー・ロラン
Melanie Laurent
ランダ大佐 クリストフ・ヴァルツ
Christoph Waltz
ブリジット・フォン・ハマーシュマルク ダイアン・クルーガー
Diane Kruger
フレデリック・ツォラー ダニエル・ブリュール
Daniel Bruhl
ヒューゴ・スティーグリッツ ティル・シュヴァイガー
Til Schweiger
エド・フェネシュ マイク・マイヤーズ
Mike Myers
アーチー・ヒコックス中尉 マイケル・ファスベンダー
Michael Fassbender
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(配給:東宝東和)
 

 『イングロリアス・バスターズ』で、ナチスとユダヤ人の図式が覆されることに、政治的な意図はまったくない。タランティーノは、マカロニ・ウエスタンを土台にこの映画を作り、このジャンルには復讐がつきものなので、図式がひっくり返ったら面白いと思っただけだろう。そこで、彼の頭のなかでは、ナチスとユダヤ人が薄っぺらな記号となり、生存のための自衛という次元を軽々と飛び越え、簡単に立場が入れ替わる存在になる。

 さらに、この映画でもうひとつ印象に残るのが言葉だ。1章で、大佐はフランス語と英語を巧妙に使い分け、床下のユダヤ人一家に気づかれないように、彼らが隠れていることを聞きだす。4章では、ナチスになりすましたイギリス軍中尉が、ドイツ語のなまりをきっかけにナチスの将校から疑惑の目を向けられる。5章では、イタリア人を装うイングロリアス・バスターズに、ユダヤ・ハンターの大佐が流暢なイタリア語で語りかけてくる。

 他者性は言葉とも深く結びつく。筆者は、この映画とマイケル・シェイボンの小説『ユダヤ警官同盟』を対比してみたくなる。この小説には、現実世界とは違うもうひとつの歴史がある。舞台はアラスカ州のバラノフ島にある"シトカ特別区"と呼ばれるユダヤ人自治区(この小説の世界では、イスラエルは建国後3ヶ月でアラブ諸国に完敗し、消滅している)。この自治区にある安ホテルで殺人事件が起こり、捜査を開始した刑事がトラブルに巻き込まれていく。

 この小説では、言葉が物語や世界に奥行きを生み出す。主人公の刑事は、出会った人物が話すイディッシュ語から、オランダやロシアやオーストラリアなどの訛りを聞き取る。トラブルに巻き込まれ、囚われの身となった彼は、アメリカ本国からやって来たユダヤ人の男が、馴染みのないヘブライ語を話すのを耳にする。彼が聞き取れるのは、シナゴーグで使われる古典ヘブライ語だが、男の言葉は、1948年以降、シオニストたちが受け継いできたヘブライ語のように聞こえる。

 この小説の登場人物たちと彼らが話す言葉は切り離すことができない。タランティーノの場合は、以前の作品にも当てはまることだが、ただシチュエーションを面白くするためだけに言葉を利用する。登場人物と言葉は、面白さのために結び付けられているだけなので、言葉があまりにも軽く感じられる。

 他者性の認識が欠落しているということは、突き詰めれば、どの人物も交換可能な存在になることを意味する。そういう感覚に筆者は違和感を覚える。

 そして、最後に女性監督コートニー・ハントの『フローズン・リバー』にも触れておきたい。タランティーノは2008年のサンダンス映画祭で審査委員長を務め、この作品を絶賛してグランプリに選んだ。ウェブのどこで見たか忘れたが、ハントは以前、タランティーノがこの作品を気に入るとは思わなかったと語っていた。筆者もまったく同感だ。なぜならこの映画からは、カナダとアメリカの国境、カナダとアメリカにまたがるモホーク族の保留地とその外部、白人と先住民、凍りついたセントローレンス川を渡ってカナダからアメリカに密入国する中国人やパキスタン人など、様々な境界が浮かび上がり、他者性が徹底的に掘り下げられているからだ。

 タランティーノがこの映画をグランプリに選んだのは素晴らしいことだが、彼がこの映画になにを見出したのかは筆者にはまったくわからない。

■付記

「キネマ旬報」2010年2月上旬号に『フローズン・リバー』の作品評が、「CDジャーナル」2010年2月号にコートニー・ハント・インタビューが掲載されています。

《参照/引用文献》
『レバノン侵攻の長い夏 イスラエルからの反省』ハコボ・ティママン●
川村哲夫訳(朝日新聞社、1985年)
『贅沢な戦争 イスラエルのレバノン侵攻』アモス・オズ●
千本健一郎訳(晶文社、1993年)

『ユダヤ警官同盟』(上・下)マイケル・シェイボン●
黒原敏行訳(新潮文庫、2009年)

(upload:2010/01/22)
 
 
《関連リンク》
クエンティン・タランティーノ
――背景も他者との境界も欠いた現代を象徴する世界
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クエンティン・タランティーノ
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』 レビュー
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クエンティン・タランティーノ 『ジャンゴ 繋がれざる者』 レビュー ■
アリ・フォルマン 『戦場でワルツを』 レビュー ■
コートニー・ハント 『フローズン・リバー』 レビュー ■

 
 
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