『イングロリアス・バスターズ』で、ナチスとユダヤ人の図式が覆されることに、政治的な意図はまったくない。タランティーノは、マカロニ・ウエスタンを土台にこの映画を作り、このジャンルには復讐がつきものなので、図式がひっくり返ったら面白いと思っただけだろう。そこで、彼の頭のなかでは、ナチスとユダヤ人が薄っぺらな記号となり、生存のための自衛という次元を軽々と飛び越え、簡単に立場が入れ替わる存在になる。
さらに、この映画でもうひとつ印象に残るのが言葉だ。1章で、大佐はフランス語と英語を巧妙に使い分け、床下のユダヤ人一家に気づかれないように、彼らが隠れていることを聞きだす。4章では、ナチスになりすましたイギリス軍中尉が、ドイツ語のなまりをきっかけにナチスの将校から疑惑の目を向けられる。5章では、イタリア人を装うイングロリアス・バスターズに、ユダヤ・ハンターの大佐が流暢なイタリア語で語りかけてくる。
他者性は言葉とも深く結びつく。筆者は、この映画とマイケル・シェイボンの小説『ユダヤ警官同盟』を対比してみたくなる。この小説には、現実世界とは違うもうひとつの歴史がある。舞台はアラスカ州のバラノフ島にある"シトカ特別区"と呼ばれるユダヤ人自治区(この小説の世界では、イスラエルは建国後3ヶ月でアラブ諸国に完敗し、消滅している)。この自治区にある安ホテルで殺人事件が起こり、捜査を開始した刑事がトラブルに巻き込まれていく。
この小説では、言葉が物語や世界に奥行きを生み出す。主人公の刑事は、出会った人物が話すイディッシュ語から、オランダやロシアやオーストラリアなどの訛りを聞き取る。トラブルに巻き込まれ、囚われの身となった彼は、アメリカ本国からやって来たユダヤ人の男が、馴染みのないヘブライ語を話すのを耳にする。彼が聞き取れるのは、シナゴーグで使われる古典ヘブライ語だが、男の言葉は、1948年以降、シオニストたちが受け継いできたヘブライ語のように聞こえる。
この小説の登場人物たちと彼らが話す言葉は切り離すことができない。タランティーノの場合は、以前の作品にも当てはまることだが、ただシチュエーションを面白くするためだけに言葉を利用する。登場人物と言葉は、面白さのために結び付けられているだけなので、言葉があまりにも軽く感じられる。
他者性の認識が欠落しているということは、突き詰めれば、どの人物も交換可能な存在になることを意味する。そういう感覚に筆者は違和感を覚える。
そして、最後に女性監督コートニー・ハントの『フローズン・リバー』にも触れておきたい。タランティーノは2008年のサンダンス映画祭で審査委員長を務め、この作品を絶賛してグランプリに選んだ。ウェブのどこで見たか忘れたが、ハントは以前、タランティーノがこの作品を気に入るとは思わなかったと語っていた。筆者もまったく同感だ。なぜならこの映画からは、カナダとアメリカの国境、カナダとアメリカにまたがるモホーク族の保留地とその外部、白人と先住民、凍りついたセントローレンス川を渡ってカナダからアメリカに密入国する中国人やパキスタン人など、様々な境界が浮かび上がり、他者性が徹底的に掘り下げられているからだ。
タランティーノがこの映画をグランプリに選んだのは素晴らしいことだが、彼がこの映画になにを見出したのかは筆者にはまったくわからない。
■付記
「キネマ旬報」2010年2月上旬号に『フローズン・リバー』の作品評が、「CDジャーナル」2010年2月号にコートニー・ハント・インタビューが掲載されています。 |