物語からは様々な境界が浮かび上がり、アイディティティの揺らぎやせめぎ合いに繋がっていく。
たとえば言葉だ。ランツマンは、出会った人物が話すイディッシュ語から、オランダやロシアやオーストラリアなどの訛りを聞き取る。トラブルに巻き込まれ、囚われの身となった彼は、アメリカ本国からやって来たユダヤ人の男が、馴染みのないヘブライ語を話すのを耳にする。彼が聞き取れるのは、シナゴーグで使われる古典ヘブライ語だが、男の言葉は、1948年以降、シオニストたちが受け継いできたヘブライ語のように聞こえた。
それから土地の違い。シトカのユダヤ人はアメリカ合衆国のユダヤ人を、自分たちより南に住んでいるというので"メキシコ人"と呼び、"メキシコ人"のほうではシトカのユダヤ人を"氷山人"または"冷凍選民"と呼ぶ。
先住民との関係など、人種の違いも境界となる。ランツマンの従弟で、同僚のベルコは、母親が先住民であるトリンギット族で、外見は生粋のトリンギット族だが、ユダヤ人のように考え、ユダヤ人のように生きる道を選択した。
さらに、もうひとつ重要な要素になっているのが、父と息子の関係だ。「アブラハムが山の上で息子イサクの胸をはだけ、ナイフを突き立てて神への捧げ物にしようとしたときから、父と息子の問題に切実な関心を寄せないユダヤ人はいない」
この物語では、チェスが事件の鍵を握っているが、それも父と息子の問題に深く結びついていく。「同性愛をべつにすれば、チェスほど男どうしを強く結びつけるものはない。男と男というのは、基本的に闘争し合う関係にあるものだが、その闘争を暴力を伴わない遊戯に変えてしまうのだ」
そんな要素に注目するならば、ホモソーシャルな関係というテーマにも結びつく。ちなみに、イヴ・K・セジウィックの『男同士の絆――イギリス文学とホモソーシャルな欲望』の序章では、“ホモソーシャル”が以下のように説明されている。
「「ホモソーシャル」という用語は、時折歴史学や社会科学の領域で使われ、同性間の社会的絆を表す。またこの用語は、明らかに、「ホモセクシュアル」との類似を、しかし「ホモセクシュアル」との区別をも意図して作られた新語である。実際この語は、「男同士の絆」を結ぶ行為を指すのに使用されているが、その行為の特徴は、私たちの社会と同じく強烈なホモフォビア、つまり同性愛に対する恐怖と嫌悪と言えるかもしれない。とすると、「ホモソーシャル」なものを今一度「欲望」という潜在的に官能的なものの軌道に乗せてやることは、ホモソーシャルとホモセクシュアルとが潜在的に切れ目のない連続体を形成しているという仮説を立てることになる」
シェイボンは、こうした多様な要素が複雑に絡み合うもうひとつの世界を構築し、国家や神話、ユダヤ教、救世主、宿命、アイデンティティ、ディアスポラ、ホモソーシャルな関係といったテーマを鋭く掘り下げている。 |