最初に断っておくべきだろうが、筆者はクエンティン・タランティーノをそれほど支持していない。巷ではずいぶんもてはやされているようだが、筆者には彼の監督としての資質や魅力というものがいまひとつはっきり見えてこないのだ。
『レザボア・ドッグス』はいい。タランティーノがそのオタク的な感性を駆使して何を参照しているかといったことを云々する以前に、結果としてそれらがもうひとつの世界を構築し、新鮮なダイナミズムを導きだしているからだ。その再構築された世界を踏まえたうえで、それをオタク的な感性から作りあげてしまったタランティーノは新しいと思えた。しかし『パルプ・フィクション』は退屈だった。一本の映画としてのダイナミズムがまったくといっていいほど感じられない。時間的な流れに細工することによって一本の映画にはなっているが、これはあくまでトリッキーでルーズなシチュエーションだけで勝負する映画になっている。
この『パルプ・フィクション』を観たとき筆者が最初に思ったのは、『レザボア・ドッグス』から『パルプ・フィクション』への展開が、ジム・ジャームッシュのある時期の展開に非常によく似ているということだった。ふたりには、物語よりもシチュエーションにこだわる作家という共通点がある。そんな彼らの作品を対比してみると、『レザボア・ドッグス』には『ストレンジャー・ザン・パラダイス』や『ダウン・バイ・ロウ』に通じる魅力があり、『パルプ・フィクション』には『ミステリー・トレイン』や『ナイト・オン・ザ・プラネット』に通じる退屈さがある。
ジャームッシュは、独自のシチュエーションのなかで、たとえば湖を見物に行くと雪で何も見えなかったり、フロリダに行くとそれが全然楽園には見えない(『ストレンジャー・ザン・パラダイス』)というような既成の世界に対する肩透かしを繰り返し、その積み重ねのなかで登場人物たちは、時間や場所、さらには映画の枠組みから解き放たれていくことになる。
ジャームッシュ本人は、そのスタイルについて“レス・イズ・モア(less is more)”という言葉をよく使う。つまり、既成の世界に対する肩透かしによって、登場人物たちを縛る情報や記号が削り取られ、そこに別な空間が広がっていくということだ。『ダウン・バイ・ロウ』はその典型で、一部の舞台であるニューオリンズの世界は、二部の刑務所という空間でその情報が消し去られ、脱獄後の三部では主人公たちは時間も場所も定かではない世界へと彷徨いだすのである。
『レザボア・ドッグス』はまったくスタイルは違うが、タランティーノが構築するシチュエーションは徹底してこの“レス・イズ・モア”を実践していくことになる。ギャングたちは、黒のスーツとタイで統一され、色でお互いを呼び合うことで名前も消し去られ、肝心の強盗シーンも描かれることがなく、舞台は集合場所である倉庫からほとんど動かない。しかしそこには独自の世界の広がりがあり、ダイナミズムが生まれるのだ。そしてタランティーノがお気に入りの北野武やウォン・カーウァイも間違いなくこのレス・イズ・モアを実践している。
■■モア・イズ・レスな『パルプ・フィクション』■■
ところがジャームッシュは、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』『ダウン・バイ・ロウ』に続く『ミステリー・トレイン』と『ナイト・オン・ザ・プラネット』という二本の映画で、それぞれに場所と時間を限定した変則的なオムニバス映画を作った。レス・イズ・モアの効果によって登場人物たちを場所や時間という束縛から解放した彼が、あらかじめ場所と時間を限定したらどういうことになるのか。いうまでもなくその映画の空間は閉塞し、それぞれのシチュエーションのリズムやオチ、光や映像のトーンといったディテールに変化をつけることで勝負するしかなくなる。もちろん作品としてのダイナミズムは失われる。モア・イズ・レスになってしまうのである。
そして筆者が『パルプ・フィクション』を観たときの第一印象というのもこのモア・イズ・レスだった。独特のリズムによる饒舌な台詞、過剰なアクションは目を引くものの、結局のところ薄っぺらな世界の閉塞感しか残らないのだ。但しもちろん、ジャームッシュと対比しただけでは、タランティーノを正確に語ったことにはならない。
ジャームッシュは、自分の世界を映像化するためにレス・イズ・モアというスタイルを作りあげながら、気づかぬうちにそのスタイルに自分がからめとられてしまっただけで、その後の『デッドマン』を見ればわかるように自分を取り戻しつつある。しかしタランティーノの場合には、たとえばプロデューサーのローレンス・ベンダーの力もあって『レザボア・ドッグス』は徹底したレス・イズ・モアでまとまることになったが、本来は『パルプ・フィクション』のようにオタク的な感性を凝縮したシチュエーションだけで勝負しようとしているとも思えるからだ。
■■小説と映画をめぐる奇妙な転倒■■
タランティーノの久々の新作『ジャッキー・ブラウン』は、その回答にはなっていないが、筆者が監督としての彼に感じる疑問がいっそう明確になる作品ではある。
この映画に込められた彼の野心は、タイトルによくあらわれている。今回はオリジナルの脚本ではなく、巨匠エルモア・レナードの『ラム・パンチ』の映画化で、そこにはジャッキー・バークというヒロインが登場してくる。原作では彼女はブロンドで“ビールのCMに出てくるような”女というように表現されている。タランティーノは、この役を彼が敬愛するブラックスプロイテーション・フィルムの女王パム・グリアに振り当て、さらに舞台をマイアミからLAに改変している。そこでヒロインの名が、パム・グリアの主演作『フォクシー・ブラウン』に敬意を表し、“ジャッキー・ブラウン”となっているわけだ。
人物関係や背景が大きな魅力となっているレナードの小説に対して、人物や舞台をこのように変えることはかなり大胆なことであるが、確かにタランティーノは独自の物語を綴っているといえる。パム・グリアへのオマージュが随所に見られるのみならず、それをドラマに反映し、ヒロインと保釈屋のロマンスを原作とはまた違った味わい深いものにしている。彼は、ジャッキーと手を組む保釈屋に扮するロバート・フォスターからも人生の後半にさしかかり、疲れの見える男の魅力を引きだし、物語だけではなく演出という意味においても、ジャクソン、キートン、デ・ニーロなどのビッグ・ネームを出し抜いてしまう。これは正直に痛快だと思った。
しかし作品全体としてはやはり疑問が浮かんでくる。一番大きな疑問として上げられるのは、なぜレナードでなければならないのかということだ。ここまで改変するのならなぜオリジナルの脚本を書かなかったのか。世の中には、あの『パルプ・フィクション』やこの映画におけるゆるいリズムを持ったシチュエーションが、いわゆるレナード・タッチだと思っている人がいるのかもしれない。確かに、たとえば映画の『ゲット・ショーティ』などに比べれば、タランティーノのルーズなシチュエーションはレナード・タッチに近いものに見える。しかしながら本質は決定的に違う。
レナードもタランティーノもシチュエーションの作家ではあるが、ふたりの表現を対比してみると小説と映画をめぐって奇妙な転倒が起こる。レナードのシチュエーションについてはよく映画的と形容されるが、実際に何が映画的なのかといえば、ひとつには、登場人物たちの会話をまるでキャメラでとらえるように描いているところにある。つまり、会話のあいだに、会話の背景となる世界の空気が当たり前のように映しとられているのである。背景を描き込んでいるという気がまったくしないのに、会話を読んでいるうちに背景が読者の目に自然に入ってしまうのだ。なぜレナードは読者を引き込んでしまうのか。この背景と人物や台詞の呼吸が絶妙でありかつ自然であるからだ。
ところがタランティーノは、こうしたレナード的なシチュエーションから人物設定と会話だけをいただき、ゆるい会話のリズムがかもしだす空気とオタク趣味の音楽だけを背景にしようとする。『ジャッキー・ブラウン』は時間的に長い映画だが、これは必ずしも原作の複雑な展開をできるだけ映画に盛り込むために長くなっているわけではない。彼は、原作の様々なシチュエーションのなかで、これぞレナード・タッチといえるような背景が生きている部分は避け、背景の空気が薄い部分ばかりを選んでそれをさらにゆるいリズムで延ばしているのである。===>2ページへ続く
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