レナードの小説の魅力は、驚くほど生き生きとしたシチュエーションの数々にあり、そのシチュエーションは実は非常に映画に近い発想で作りあげられている。彼のシチュエーションでは、まるでキャメラでとらえられているかのように、対話ばかりではなく、その背景となる世界の空気までが当たり前に映しとられてしまう。その背景の効果が絶大で、会話と人物が妙に生き生きし、読者を引き込んでしまうのだ。
ところが、彼の小説が映画になってみると、人物設定と会話は引き継がれていても、それがクローズアップの短いカットの連続で描かれるなど、一番の魅力である背景の空気が浮かび上がってこないのだ。
ここまで書けば筆者が言いたいこともおわかりいただけるだろう。「ザ・ウィナー」では、会話のシチュエーションを長回しで撮ることによって、その背景となるラスヴェガスが、カットを組み合わせたイメージではなく空気として見事に映しとられ、それぞれのキャラクターをさらに生き生きとしたものにしている。アレックスは、このシナリオをまさにレナード・タッチで映画化してしまったというわけだ。しかもこの映画では、もう一方で会話の間を大胆にカットすることによって、こうした長回しの流れとコントラストをつけ、絶妙なリズムを生みだしてもいる。
さらに、このシナリオにはアレックスが好みそうなもうひとつの魅力がある。それはラスヴェガスという世界を、宗教的なイメージを通して象徴的に描いているということだ。
まず何よりも、このドラマの中心に位置するフィリップは、まるで教会に通うかのように毎週日曜日にカジノに現われ、神懸かりの奇跡を披露する。三人組のギャングのボスであるジョーイはいつも啓示を求め、彼が堕落したエデンを滅ぼすために神が雨を降らせた話をすると、ラスヴェガスは激しい雨に包まれる。カジノの客を見下ろし、何かというと大袈裟な譬え話を持ちだすオーナーのキングマンも丘の上の賢者を気取っている。
アレックスは、映画作りに際して常にまずロケーションにこだわり、舞台となる世界に強烈な磁場を作り、その世界を異化してしまう。この映画では、そんな宗教的な象徴を際立たせることによって、これまでラスヴェガスを舞台にした映画とは異質なラスヴェガスを描きだしている。頻繁に挿入されるラスヴェガスの遠景、殺伐とした自然と建造中の高層ビルや郊外住宅のシュールなイメージ、怪しげな雲行きから放たれる閃光、そしてドラマを彩る原色と陰影を強調した映像などが、宗教的な象徴と結びつき、異空間としてのラスヴェガスを現出させるのである。
そして映画のラストがまた素晴らしい。ラストでキングマンがカジノの電源を切ると、街を彩るイルミネーションが次々と消えていき、最後には、夜空を埋める星までもが人工の照明であったかのように闇に呑み込まれていく。これは、きわめてアメリカ的で人工的な空間であるラスヴェガスで繰り広げられる奇跡と金と愛をめぐる物語の幕切れにふさわしい象徴的なラストといっていいだろう。
そういう意味では、この映画は極端というほどの飛躍はないものの、キリスト教の伝道師から宇宙人までを引き込み、ロスを異空間に変えた「レポマン」を連想させる。ということは、この映画では、「レポマン」の魅力からメキシコ時代のアレックスを特徴づける長回しまでが融合していることになる。自分のオリジナルな企画ではなく雇われ監督の仕事としてこれ以上何を望むことができるだろうか。「ザ・ウィナー」は、彼が十分に自分の感性を出し切っているという意味で、他の作品と比べてもまったく遜色がない立派なアレックスの監督作品である。
ところで、オリジナルがこれほど素晴らしいと再編集版がどんな代物なのか好奇心がわいてくるが、こちらはまさしく悪夢の一言に尽きる。差し替えられた音楽では、たとえば冒頭からホーンのアンサンブルにラテンのリズムやギター、キーボードが絡む軽快なジャズが流れだし、よくあるテレビ向けのアクションに完璧に作り変えられている。またフィルムの再編集については、先述した緻密に計算された長回しを少しでもカットすることが、映画全体にどのようなダメージをもたらすかあらためて語る必要もないだろう。
それだけにこの貴重なオリジナル・ディレクターズ・カットの「ザ・ウィナー」が、日本で公開されることを心から喜びたいと思う。 |