シドとナンシーは、決して運命的な出会いをするわけではない。アメリカの消費社会のなかで育ったナンシーは、ドラッグを消費するジャンキーであり、ロック・スターを消費するグルーピーであり、パンク・ムーヴメントで盛り上がるイギリスにやって来る。彼女にとっては、スターであれば誰でもかまわなかったともいえる。
一方シドは、経済が破綻をきたし衰退の一途をたどるイギリス、パンク・ムーヴメントが巻き起こるような不満が鬱積した世界で育ち、GIジョーの人形などに垣間見られるようにアメリカに対して漠然とした憧れをいだいている。しかしながら、ジョニーとともにナンシーのことをセックス目当てのアメリカ人、ヒッピーと罵るように、イギリスの若者ならではのアンビバレントな感情を持っている。
そんなシドとナンシーの関係の始まりは、ドラッグである。シドにとっては単なる好奇心のようなものであり、彼らはお互いを見つめているわけではない。シドが体験するドラッグの陶酔とその後の嘔吐と苦痛は、アメリカの洗礼といっていい。
『シド・アンド・ナンシー』とは、ドラッグで結ばれた彼らが、ピストルズのベーシストでもグルーピーでもなくなる場所、イギリスでもアメリカでもない場所、彼らがお互いを見つめるだけの場所へと旅立っていくまでを描く物語なのだ。
そんな場所への旅の入り口となるのは、船上ライヴから警官に追われてバンドのメンバーや観客が散り散りに逃げるなか、シドとナンシーだけがあたかも異次元に存在するかのようにゆっくりと歩き去る場面だろう。この場面などは、彼らにイギリスとアメリカという土壌が反映されていなかったら、ひどく浮いたものになっていたに違いない。
土壌に対するコックスのこだわりは、ピストルズのアメリカ・ツアーの展開にもよく現われている。シドは、憧れのアメリカで疎外と幻滅を味わい、イギリスに取り残されたナンシーもまた悲惨な思いをする。そんな展開のなかで、彼らを結びつける背景となった土壌はしだいに消し去られ、ふたりの感情と肉体の絆だけが浮き彫りにされていくことになる。
ニューヨークの裏通りにふたりのシルエットが浮かぶ場面やラストの素晴らしさは、もはや触れるまでもないだろう。これは、普遍的な輝きを失うことがない壮絶で切なく美しい恋愛映画なのだ。
しかしもう一方で、いま観られることによってこの映画は新たな魅力を放つことにもなる。
シド・ヴィシャスが死亡してから間もなくイギリス社会は急激な方向転換をはかる。マーガレット・サッチャーが政権の座につき、それまでの高福祉政策から自由主義経済市場へと大きく舵を切り、資産所有の民主主義を強引に押し進めていく。そこで、金融界の相場師が英雄と言われるような拝金主義が蔓延するようになる。
たとえば、最近日本でも大ヒットした『トレインスポッティング』は、そのサッチャリズム以後のイギリスを描いている。イギリスの労働者階級にヘロインが広がるようになったのは、この自由主義経済への転換以後のことで、この映画の主人公レントンは、そのヘロインにのめり込み、これまでの労働者の価値観を守ろうとしたり、スコットランド人のアイデンティティにこだわる仲間を裏切り、自分の未来を選ぶ。つまり、この主人公は、消費社会のなかでもはや後戻りすることができないイギリスを象徴している。
そこで、そんなイギリスの変化を踏まえて『シド・アンド・ナンシー』を振り返ってみるとどうだろうか。シド本人は、ただのクズであったがゆえに衰退の一途をたどるかつてのイギリスの象徴となったが、映画は違う。コックスは、サッチャーがイギリスをアメリカのような消費社会に変えつつある80年代半ばに、ある意味ではアメリカに呑み込まれていくイギリスの若者としてのシドの物語を作ったということになる。そう考えると、殺伐としたニューヨークの荒野でピザをほお張り、彼方の空間へと消えていくシドの姿には、イギリスの決定的な分岐点を感じてしまう。
そしてもうひとつ、イギリス出身のコックスが祖国と接点を持った唯一の映画が、この『シド・アンド・ナンシー』であるというのも、いま思うと非常に感慨深いものがある。
※このテキストを書いた後で、コックスにインタビューしたとき、この映画とサッチャリズムとの繋がりについて尋ねてみた。彼はこのように語っていた。
「当時のイギリス社会の変化については、もちろん痛烈に意識していた。やはり自分が生まれた国のことだから。アメリカというのは同じ英語を使う国で、そういう意味ではフランスとかメキシコなどの方が独自の文化を維持しやすいのかもしれないが、言葉が同じであるだけにイギリスがあっという間にアメリカに取り込まれ、制覇されてしまうというような、そういう危険があると感じていた」 |