シド・アンド・ナンシー
Sid and Nancy  Sid and Nancy
(1986) on IMDb


1986年/イギリス/カラー/113分/ヴィスタ/ドルビー
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(初出:『シド・アンド・ナンシー』リバイバル・劇場用パンフレット、若干の加筆)

 

 

アメリカに呑み込まれていく若者
変貌するイギリスの決定的な分岐点

 

 イギリス出身の監督アレックス・コックスは、これまでアメリカ、イギリス、スペイン、ニカラグア、そしてメキシコと実に様々な場所で映画を撮ってきた。彼の凄いところは、どこに行って映画を作ろうとも、それぞれの土地、世界を鋭く掘り下げ、独自の磁場を作り、映画ならではの魅力的な空間を切り開いていくところにある。

 たとえば、ロサンジェルスを舞台にしたデビュー作の『レポマン』(84)。“レポマン”とは、車のローンを払わない客から車を取り上げる連中のことだが、彼らを主人公にすることですでにこの映画はアメリカの消費社会をユニークな視点から浮き彫りにしている。なぜなら、彼らの仕事は、金を払えないことを知っていながら車を買う消費者と同じように払えないことを知っていながら売る業者の悪循環のうえに成り立っているからだ。

 しかし、この映画は単にアメリカの消費社会を風刺するだけではない。コックスは、さらにテレビ伝道師やUFOマニアなど西海岸の風俗を取り込んでリアルな社会の縮図を作り上げている。そして、そこにSF的な要素を盛り込むことによって、主人公を輝くマリブとともにロスの夜空に舞い上がらせ、この縮図を見事に突き崩してみせる。

 あるいは、ニカラグアで撮影された『ウォーカー』(87)。この作品は、19世紀半ばに、アメリカ人として最初にして唯一のニカラグア大統領となったウィリアム・ウォーカーの実話をベースにしている。ウォーカーは、アメリカの領土拡張主義の象徴のような人物ということになるわけだが、やはり映画は、アメリカの帝国主義的土壌を単純に風刺するような作品にはなっていない。

 この映画で、ウォーカーは下心など微塵もない理想主義の権化として描かれている。ところが、その理想が、思いもよらない指導者の銃殺や彼が嫌悪していたはずの奴隷制を手繰り寄せていく。大国の論理などというレベルを一気に突き抜けて大国の病とでもいうべきものを浮き彫りにしてしまうのである。しかも、スタイルということでいえば、しっかりマカロニ・ウエスタンにこだわっているあたりが、映画としてさらに強烈で、凄まじいパワーを放つ。

 現在のコックスは、メキシコを拠点に『エル・パトレイト』やこれから公開になる『死とコンパス』といった作品を作り続けている。このメキシコを拠点にするということについては、彼がまったくコマーシャリズムに妥協しないという事情もあるだろうが、とても相応しい場所にも思える。強烈な磁場を作り、時空を超えるような空間を切り開いてきた彼にとって、マジック・リアリズムを育む土壌は間違いなく魅力的であるはずだからだ。

 それでは、『シド・アンド・ナンシー』におけるコックスの魅力とはどのようなものか。それは簡単にいえば、シド・ヴィシャスにイギリスの土壌が、ナンシー・スパンゲンにアメリカの土壌が見事に反映され、それがお互いを激しく引きつけ、壮絶で純粋な愛の物語を紡ぎ出していくところにある。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   アレックス・コックス
Alex Cox
脚本 アビ・ウール
Abbe Wool
撮影 ロジャー・ディーキンス
Roger Deakins
編集 デヴィッド・マーティン
David Martin
音楽 ザ・ポーグス、ジョー・ストラマー、プレイ・フォー・レイン
The Pogues, Joe Strummer, Pray for Rain
 
◆キャスト◆
 
シド・ヴィシャス   ゲイリー・オールドマン
Gary Oldman
ナンシー・スパンゲン クロエ・ウェブ
Chloe Webb
ジョニー・ロットン アンドリュー・スコーフィールド
Andrew Schofield
スティーヴ・ジョーンズ トニー・ロンドン
Tony London
ポール・クック ペリー・ベンソン
Perry Benson
マルコム・マクラーレン デヴィッド・ヘイマン
David Hayman
フィービー デビー・ビショップ
Debby Bishop
リンダ アン・ラムトン
Anne Lambton
ブレンダ キャシー・バーク
Kathy Burke
ロック・ヘッド スチュアート・フォックス
Stuart Fox
刑事 マーク・モネロ
Biff Yeager
クライヴ ブロナー・ギャラガー
Mark Monero
オリーヴ ミシェル・ウィンスタンレー
Michele Winstanley
ウォリー グラハム・フレッチャー=クック
Graham Fletcher-Cook
スパンゲン祖父 ミルトン・セルザー
Milton Selzer
スパンゲン祖母 グロリア・ルロイ
Gloria LeRoy
-
(配給:ケイブルホーグ)
 

 シドとナンシーは、決して運命的な出会いをするわけではない。アメリカの消費社会のなかで育ったナンシーは、ドラッグを消費するジャンキーであり、ロック・スターを消費するグルーピーであり、パンク・ムーヴメントで盛り上がるイギリスにやって来る。彼女にとっては、スターであれば誰でもかまわなかったともいえる。

 一方シドは、経済が破綻をきたし衰退の一途をたどるイギリス、パンク・ムーヴメントが巻き起こるような不満が鬱積した世界で育ち、GIジョーの人形などに垣間見られるようにアメリカに対して漠然とした憧れをいだいている。しかしながら、ジョニーとともにナンシーのことをセックス目当てのアメリカ人、ヒッピーと罵るように、イギリスの若者ならではのアンビバレントな感情を持っている。

 そんなシドとナンシーの関係の始まりは、ドラッグである。シドにとっては単なる好奇心のようなものであり、彼らはお互いを見つめているわけではない。シドが体験するドラッグの陶酔とその後の嘔吐と苦痛は、アメリカの洗礼といっていい。

 『シド・アンド・ナンシー』とは、ドラッグで結ばれた彼らが、ピストルズのベーシストでもグルーピーでもなくなる場所、イギリスでもアメリカでもない場所、彼らがお互いを見つめるだけの場所へと旅立っていくまでを描く物語なのだ。

 そんな場所への旅の入り口となるのは、船上ライヴから警官に追われてバンドのメンバーや観客が散り散りに逃げるなか、シドとナンシーだけがあたかも異次元に存在するかのようにゆっくりと歩き去る場面だろう。この場面などは、彼らにイギリスとアメリカという土壌が反映されていなかったら、ひどく浮いたものになっていたに違いない。

 土壌に対するコックスのこだわりは、ピストルズのアメリカ・ツアーの展開にもよく現われている。シドは、憧れのアメリカで疎外と幻滅を味わい、イギリスに取り残されたナンシーもまた悲惨な思いをする。そんな展開のなかで、彼らを結びつける背景となった土壌はしだいに消し去られ、ふたりの感情と肉体の絆だけが浮き彫りにされていくことになる。

 ニューヨークの裏通りにふたりのシルエットが浮かぶ場面やラストの素晴らしさは、もはや触れるまでもないだろう。これは、普遍的な輝きを失うことがない壮絶で切なく美しい恋愛映画なのだ。

 しかしもう一方で、いま観られることによってこの映画は新たな魅力を放つことにもなる。

 シド・ヴィシャスが死亡してから間もなくイギリス社会は急激な方向転換をはかる。マーガレット・サッチャーが政権の座につき、それまでの高福祉政策から自由主義経済市場へと大きく舵を切り、資産所有の民主主義を強引に押し進めていく。そこで、金融界の相場師が英雄と言われるような拝金主義が蔓延するようになる。

 たとえば、最近日本でも大ヒットした『トレインスポッティング』は、そのサッチャリズム以後のイギリスを描いている。イギリスの労働者階級にヘロインが広がるようになったのは、この自由主義経済への転換以後のことで、この映画の主人公レントンは、そのヘロインにのめり込み、これまでの労働者の価値観を守ろうとしたり、スコットランド人のアイデンティティにこだわる仲間を裏切り、自分の未来を選ぶ。つまり、この主人公は、消費社会のなかでもはや後戻りすることができないイギリスを象徴している。

 そこで、そんなイギリスの変化を踏まえて『シド・アンド・ナンシー』を振り返ってみるとどうだろうか。シド本人は、ただのクズであったがゆえに衰退の一途をたどるかつてのイギリスの象徴となったが、映画は違う。コックスは、サッチャーがイギリスをアメリカのような消費社会に変えつつある80年代半ばに、ある意味ではアメリカに呑み込まれていくイギリスの若者としてのシドの物語を作ったということになる。そう考えると、殺伐としたニューヨークの荒野でピザをほお張り、彼方の空間へと消えていくシドの姿には、イギリスの決定的な分岐点を感じてしまう。

 そしてもうひとつ、イギリス出身のコックスが祖国と接点を持った唯一の映画が、この『シド・アンド・ナンシー』であるというのも、いま思うと非常に感慨深いものがある。

※このテキストを書いた後で、コックスにインタビューしたとき、この映画とサッチャリズムとの繋がりについて尋ねてみた。彼はこのように語っていた。

「当時のイギリス社会の変化については、もちろん痛烈に意識していた。やはり自分が生まれた国のことだから。アメリカというのは同じ英語を使う国で、そういう意味ではフランスとかメキシコなどの方が独自の文化を維持しやすいのかもしれないが、言葉が同じであるだけにイギリスがあっという間にアメリカに取り込まれ、制覇されてしまうというような、そういう危険があると感じていた」


(upload:2014/09/21)
 
 
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