前作『リベンジャーズ・トラジディ』(02)の原作は、17世紀イギリスの劇作家トーマス・ミドルトンの代表作『復讐者の悲劇』だった。コックスは、この古典復讐劇の舞台を宮廷から2011年のリヴァプールに変え、終末観が漂う近未来世界を作り上げた。そんな映画では、冒頭に挿入された「人を呪わば穴二つ」という諺が示唆するように、主人公は復讐を果たす代わりに、自分の墓穴も掘ることになる。復讐の鬼はヒーローとはなり得ない。コックスは、復讐と欲望、不安に囚われ、それぞれに自分を見失っていく登場人物たちの姿を、ブラック・ユーモアも交えながら、グロテスクなタッチで描き出している。
さらに、ボルヘスの短編小説を映画化した『デス&コンパス』(96)を振り返っておくのも無駄ではないだろう。近未来風のメガロポリスを舞台にしたこの映画も、復讐と繋がりがある。謎の連続殺人事件を捜査する主人公の敏腕警部は、その能力を過信し、彼に恨みを持つ容疑者に注目するのではなく、事件現場に残された謎のメッセージにとり憑かれ、自分の死で完結する復讐劇を演出してしまう。
こうしたコックスの視点は、新作にも引き継がれている。この映画は、メルが日雇いの仕事を求めるところから始まる。それはまさに彼が直面している現実であり、もしヒスパニックの同胞たちの権利を守るためにもっと積極的に立ち上がろうとすれば、ヒーローと呼ばれることになるかもしれない。だが、ふと耳にした音楽が彼を別の世界に引き込み、復讐の旅に駆り立てていく。
その旅からは、様々なブラック・ユーモアが浮かび上がってくる。メルは、自分で車を所有する余裕などまったくないにもかかわらず、「奴らを倒し、石油を奪え」というステッカーのメッセージに賛同している。この映画には、デライラが戦死者を追悼する遺影に見入る場面や、3人を乗せたSUVが、戦死者のものと思われる墓地を通過する場面などが盛り込まれている。その図式は、戦死者たちが石油のために命を落とし、3人がやたらとガソリンを食う車で旅していることを物語る。さらに、フレッドとメルは、イラク戦争を正義、石油、復讐という言葉で正当化することによって、フロビシャーから金を奪うことも正当化しようとする。
しかし、復讐の鬼を賛美していた彼らは、ヒーローにはなり得ない。実はフレッドもフロビシャーも、メルが思っていたような人間ではない。メルの視点に立ってみると、この物語はある種の夢のようにも思えてくる。音楽によってフレッドの家に導かれ、フロビシャーに対する恨みを勢いで口走った彼は、復讐に囚われていくが、最後に現実に目覚める。あるいは、メルがマリファナを、デライラが抗うつ剤を置き忘れてきた旅から、もうひとつの現実が浮かび上がってくるということもできる。コックスは、そんな時空を切り開くことによって、イラク戦争や映画産業を痛烈に風刺してみせるのだ。 |