というようにベルイマンの影響は多岐に渡るが、そのなかでも特に大きな影響力を持つ要素を絞り込めないことはない。たとえば、ラース・フォン・トリアーの以下のような発言にはそのヒントがある。
「ぼくが大学で映画理論の講義を受けていたころ、半年間ずっとベルイマンについてだけだった。だから、ぼくの映画人生のなかで、彼の占める場所はとんでもなく大きい。彼の映画は全部見た。彼が撮った石鹸のコマーシャルまで。ベルイマンが今も現役だというのは、嬉しい、『道化師の存在のなかで』は不思議な映画(註:テレビ用作品)だった。ベルイマンは、筋の途中、白塗りの道化を夢のような光りのなかに突然登場させて、しかも不自然でない、世界でただひとりの監督だと思う。ぼくたち観客は、起こったことを、そのまま自然に受け止めてしまうんだ」(『ラース・フォン・トリアー――スティーグ・ビョークマンとの対話』)
この言葉にある白塗りの道化師は、『第七の封印』の死神に置き換えることができるが、ジャック・シクリエも同様の指摘をしている。「ところでもし『第七の封印』が「現存する最も美しい映画の一つ」(※エリック・ロメールの言葉の引用)であるとすれば、それは幻想的なもの(寓意的なもの)がごく自然に日常(現実)の中に導入されるあの方法の力によっている」(『ベルイマンの世界』)
■ ベルイマン作品の象徴01――過去をめぐる幻想
ベルイマンの作品では、幻想的なものがごく自然に現実のなかに取り込まれている。多くの監督たちに影響を及ぼしているのは、そんな現実と幻想の狭間に登場人物の生を描き出す独自の視点と表現だろう。但し、幻想的なものがなにを意味するのかは作品によって変わる。ここではそれを大きく三つに分けてみたい。
まず、過去が幻想的なものの源になっている場合であり、『野いちご』が代表作になる。名誉博士の称号を授与される主人公の老教授は、空間と同時に幻想的なものを通して時間を旅し、内面が変化していく。過去や記憶をめぐるこのようなアプローチに影響を受けている監督は少なくない。
たとえば、ウディ・アレンだ。『私の中のもうひとりの私』では、充実した人生を送ってきたと信じる女性教授が、隣室からもれる精神分析医と患者の会話を耳にしたことがきっかけとなって、過去の自分を見つめなおす奇妙な旅を始める。『地球は女で回ってる』は、主人公の作家が母校での表彰式に臨むという設定がすでに『野いちご』をなぞっている。そのドラマでは、過去と現在、虚構と現実の境界が曖昧になり、“Deconstructing Harry”という原題が物語るように、主人公の人生が再構築されていくことになる。
カナダの鬼才アトム・エゴヤンは、インタビューで最も影響を受けた監督としてベルイマンの名前を挙げている。その影響はまずなによりも過去に対する独自の視点に表れている。『エキゾチカ』、『スウィート ヒアアフター』、『アララトの聖母』といった彼の作品では、ドラマのなかで過去が徐々に明らかにされていくだけではなく、最終的に過去と現在を繋ぐ回路が変化し、導入部とは異なる世界が切り拓かれる。
韓国映画界で異彩を放つパク・チャヌクも、影響を受けた監督としてベルイマンの名前を挙げている。パク・チャヌクの作品といえば、独特の美学に貫かれた造形や暴力描写が真っ先に思い浮かぶが、実は過去が重要な位置を占めてもいる。『オールド・ボーイ』や『親切なクムジャさん』、そしてハリウッドへの進出を果たした最新作『イノセント・ガーデン』で、主人公が向き合う過去には、冷酷な罠や秘密が隠されている。そして、そんな過去と現在のねじれが主人公の人生を大きく変えてしまう。
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