■■演技する平田オリザ■■
要するにこの映画では、観察する立場にあるのは想田監督だけではない。平田オリザもまた観察することでリアルを生み出している。
「平田さんも観察者だと思うんです。たぶん一から台詞を考えるのではなく、普段の生活で見たことを記憶していて、膨大なデータベースが頭のなかにあるんだと思います。そこからいろいろ引き出して台本を構築する。演出するときにも俳優の動きなり、喋り方なりを観察することによって、台本をアジャストしていくわけですね。そういう意味では、この映画には『観察者を観察する』みたいな入れ子構造がある(笑)。それから平田さん自身もものすごく演技をされていると思うんですよ。とにかくカメラの無視の仕方が尋常じゃない。普通の人は『カメラを無視する』と言っても、ときどき僕のことをチラッと見たり話しかけたりするものなんですが、それもない。あそこまで無視するというのはやっぱり不自然なんです(笑)。でも振る舞いは演技に思えないくらい自然なんです。だから『僕はいまなにを撮っているんだろう?』と考え込んでしまった。つまりドキュメンタリーのカメラは何を映すのか、という難問にぶち当たった」
『演劇1』で平田は、人間とは演じる生き物だと語っている。演じることは虚構のはずだが、それが人間の本性であるなら、リアルということになる。この映画がリアルに感じられるのは、そんなパラドックスをしっかりととらえているからだろう。
「実際、僕らは常に演じながら社会生活を営んでいますよね。だから人間が演じるという側面をとらえていくことは、人間とはなにかをとらえていくことでもあるわけで、どんどん深みにはまっていくんですよ。僕がなぜカメラを媒介にして現実と向き合おうとするのかといえば、やはり現実をある種の虚構に落とし込むことによってしか、『リアル』に近づけないような気がするんですよ。人間は虚構を通じてしか現実を把握できない、というか。たぶん平田さんも、そういうことで演劇を作っているんじゃないかな。あと、あのサプライズ・パーティにしても、大の大人がみんなはしゃいで志賀さんを騙すことに熱中するわけですけど、そういうところに演劇の原初的な形態や、『なぜ人は演じるのか』という問いへの糸口を感じますね。演劇は少なくともギリシャ時代にはもうあったわけですけど、その理由が何となく分かる」
■■広場としてのアゴラ劇場■■
この映画では、平田と青年団が活動する「こまばアゴラ劇場」の看板が何度も映し出される。“アゴラ”とは、古代ギリシャの都市国家のなかで重要な位置を占めていた広場を意味する。それを踏まえるなら、2部作はそれぞれに、広場が生み出すものと、社会における広場の役割を明らかにし、広場が持つ意味を検証していると解釈することもできる。なぜならいまでは広場が、そこまでの求心力をもち得ないエンタテインメントに変わっているからだ。
「それ、素晴らしい解釈ですね。感動しました。あの小さな劇場は、本当にアゴラという言葉通りの場所になっていますよね。いま、お金を稼ぐための消費財としてのエンタテインメントがものすごく力を持っていて、それは別にいいんですけど、演劇や映画を作ることの本質とはずれている気がします。芸術って、もともとは資本主義的価値観とは相容れないものですよね。お金が最上位にある価値ではない。僕が平田さんの演劇に惹かれたのもそこが大きくて、彼は芸術作品を作りたいという根源的な欲求を一番大事にしている。あれだけいろいろ組織の効率化をはかり、資本主義的な価値観に合わせて動き回っているように見えるんですが、演劇に対してはものすごくストイックというか、妥協がないなんですよね。アゴラ劇場も、演劇をすることの欲求から生まれている場だという感じがあって、そういう意味では本当に広場なんでしょうね」 |