優れた戦略家でもあるラース・フォン・トリアーが始めたドグマ95は、刺激的なムーヴメントだった。ハーモニー・コリンやピョン・ヒョク、ジョエル・シューマカー、今をときめくスサンネ・ビアなど、様々な監督に影響を及ぼした。だが筆者には、もっと凄い作品が出てきてもおかしくないのではないかという疑問が残っていた。
この映画は、その答えになっている。ムンジウ監督は、セットが好きではなく、すべてロケだという。この映画の撮影では、三脚もステディ・カムもクレーンもドリーも使っていない。人工的な照明も極力抑えられている。表面的なアクションもない。ドグマ95のあの“純潔の誓い”をかなりクリアしている。この映画の緊張やダイナミズムは、そんなドグマ的なスタイルから生み出されている。
しかしもちろん、ムンジウ監督は、ドグマ作品を作ろうとしたわけではない。この映画の最大の強みは、わざわざ制約を課すのではなく、必然としてこのスタイルになったということだ。
では、どんな必然なのか。ヒロインが、ルームメイトの違法な中絶手術を成功させるために奔走し、犠牲を払う行動は、見た目以上に大きな意味を持っている。チャウシェスク独裁政権は、非道な人口増加政策を国民に強要した。それは、人間が、労働力を確保し、国力を高めるための道具にされていることを意味する。中絶手術を成功させることは、そんな体制に対して彼女ができる最大限の抵抗なのだ。それを、余計な説明を加えることなく、行動だけで表現するためには、まず何よりも嘘のない世界を作り上げる必要がある。
この映画には、ドグマ95が目指していた理想が集約されている。それは、半端なドキュメンタリーよりも嘘のない劇映画なのだ。
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