しかし、主人公の設定やキャストが変わっても、バーラニが切り拓く世界の本質は変わっていない。彼が描いているのは、突き詰めれば、夢を持ち、夢を叶えようとすることをめぐる洞察に満ちた人間ドラマだといえる。
たとえば、『チョップショップ〜』では、自動車修理工場に住み込みで働くヒスパニックの少年が、中古のマイクロバスを購入してフード・トラックに改造し、一緒に暮らす姉とビジネスを始める夢を持つ。だが、姉が密かに売春していることに気づいた彼は、自分の感情をコントロールできなくなっていく。『グッバイ ソロ』に登場するセネガル移民のソロは、メキシコ系の妻と彼女の連れ子の娘と暮らし、タクシー運転手として働きながら、キャビンアテンダントになるための勉強を続けている。そんな彼は夢を叶えることで頭が一杯になっているが、自殺を計画している老人の運転手になり、老人が失ったものを察することで、家族との関係を見つめ直していく。
夢を持つことは悪いことではないが、それを分かち合えなければ、家族の信頼関係が崩れていく。そんな視点は『チェイス・ザ・ドリーム』にも引き継がれている。但し、キャストに複雑な演技が要求できるようになったため、脚本がより緻密になっている。
この映画ではふたつの夢が絡み合う。農場を営む父親は事業の拡大を目論み、息子はレーサーを目指す。その息子はやがて挫折し、父親の事業を手伝うようになる。後継者を求める父親にとってそれは望ましいことのはずだが、農場に調査が入ることになったとき、密告者の正体を誤解した息子が取り返しのつかない過ちを犯してしまう。そんなトラブルの原因は、元をたどれば父親が、他人の痛みや苦しみを顧みることもなく事業を拡大しようとしたことにある。その結果、親子は重い十字架を背負って生きていくことになる。
では、新作『ドリームホーム〜』の場合はどうか。デニスは、家を奪った張本人であるカーバーの右腕になり、自分と同じ立場にある人々を犠牲にしてでも家を取り戻そうとする。母親や息子のコナーはもはや夢を分かち合えなくなり、家族の信頼関係は崩れていく。それはまさにバーラニが掘り下げてきた関係だが、彼が強い関心を持っているのは、規制緩和や不平等な税制を背景に、ウォール街や銀行、企業が困窮する庶民を食いものにし、格差を広げていくシステムだ。
この映画では、3年前までは普通の不動産屋だったが、今では完全にシステムに取り込まれているカーバーと、いままさに取り込まれようとしているデニスが、映像を通して実に巧妙に対置されている。この映画の冒頭では、家の主が拳銃自殺した現場に立つカーバーの姿が長回しで映し出され、終盤では、フランク・グリーンが銃を構えて家に立てこもる。このふたつの場面は密接に結びついている。
冒頭の場面は、カーバーの冷淡さを際立たせているだけではない。彼にもこれまでに取り返しのつかない悲劇を未然に防ぐ最初の機会というものが間違いなくあった。そこで行動を起こせば引き返すことができたはずが、一線を越えた結果、現在のような人間になったのだ。終盤の場面は、ひとつ間違えば血なまぐさい事件に発展してもおかしくない状況であり、そうなればデニスは引き返すことができなくなる。
そこで重要になるのが、デニスとフランク・グリーンの関係だ。映画の前半でデニスが裁判所に出廷したとき、そこにフランクも居合わせ、デニスを目にしていたことがあとでわかる。そのときふたりは同じ立場にあったが、偽造文書を持って裁判所を訪れたデニスがフランクの姿を目にするとき、彼らは別の人間になっている。フランクはシステムと闘い、家を守るという夢を妻子と分かち合っている。そんな光景がデニスの心を揺さぶっていなかったら、物語の結末は違ったものになっていたかもしれない。
バーラニはこの映画で、ただ人間関係を描くのではなく、家という夢がシステムによって浸食されていく状況を、激しくせめぎあう感情を通して見事に浮き彫りにしている。 |