本作でも、そんな構成や物語の展開に大きな違いはない。ただ、原作が発表されてからかなり時間がたっているので、設定が、原作発表以後の2010年に実際に行われた温家宝の訪印の時点に変更されている。また、原作では手紙だったが、本作ではメールに変わっている。
本作で最も重要なのは、バルラムの告白のなかにある「インドの1万年の歴史で最高の発明」だ。その意味するところは、だいたいこのようになる。最高の発明とは「ニワトリの檻」(原作では鳥籠と表現されている)だ。ニワトリは血の匂いで自分の運命を知っても、暴れもせず、逃げようともしない。使用人も同じように育つ。1ルピーもくすねない。インド人が世界一正直で気高いからではなく、自分たちの99.9%が檻の中にいるからだ。もし主人の金を奪って逃げたらどうなるか。当人だけでなく家族もみな殺しにされてしまう。だから檻から出ようとはしない。
バルラムはこの「ニワトリの檻」のことを、すでに一線を越えた立場から語っている。それは他人事のようにも見える。だが、そこから過去へとさかのぼり、物語が展開をはじめると、檻の中に閉じ込められた別人のバルラムが見えてくる。
バルラムは、デリーにやってくるアショクの父コウノトリや兄の(通称)マングースにはたかれても蹴られても従順に従う。アショクとピンキーの信頼を得るために勤勉に働く。だが、故郷の家族への仕送りもしなければならず、富を蓄えることはできない。
そんなとき、酔って運転したピンキーが轢き逃げをしてしまう。だが、コウノトリの企みでバルラムに責任が押しつけられる。それでも彼は言われるままに署名する。だが心は揺れだす。彼はこのまま働いても、将来はスラム街の小屋暮らしだと知り、次第に金をくすねるようになる。
その一方で、バルラムと故郷の家族の関係も見逃せない。祖母は、一方的に結婚を迫り、彼の未来を決めようとする。やがてデリーのバルラムの前に甥が現われ、祖母が結婚の話を進めていることを知り、彼は奴隷をやめる決意をする。
本作には、兄マングースとともに大臣に賄賂を渡したアショクが、その帰りにガンディーの像の前を通ることを皮肉に思う場面があるが、ここで思い出したいのは、そのガンディーと農村の関係だ。
エドワード・ルースの『インド 厄介な経済大国』では、ガンディーの農村哲学を説明するために、ガンディーからネルーに送られた手紙が引用されている。
「私は信じている。もしインドが本当の自由を手に入れるつもりなら、そして世界がインドの力を通して自由になるつもりなら、遅かれ早かれ、人は町ではなく村に、宮殿ではなく小屋に暮らさなければならないと認めなければならない。町や宮殿では、何千万という人間が隣人どうし平和に暮らしていくことなどできない。そのときに彼らは、暴力と偽りという手段に訴えざるをえなくなる」
現代のインドで活動する多数の政党のなかで、ガンディーの農村哲学を前面に押し出しているところは一つもない。だが、彼の農村についての考えがインドの行政のさまざまな場面に根強く生き残り、非政府組織や数万の慈善団体にとっては、ガンディー主義が今も主流になっているという。そして、著者ルースの以下のような考察が続く。
「この態度は彼らがまだ、イギリスに対する反植民地運動のころの思想にとらわれていることも示している。農村と“家”は、植民地主義に最後まで影響されることのないインド固有の文化とみなされていた。ガンディーの哲学の大部分に異を唱えた人たち、たとえば、ベンガルの偉大な作家で詩人、また教育者でもあったラビンドラナート・タゴールでさえ、インドの農村を神聖視するようなところがあった――農村に住む人たち自身の間には、そうした態度はそれほど顕著に見られなかったのだが」
この農村と“家”は、原作の「鳥籠」や本作の「ニワトリの檻」と無関係ではないだろう。一線を越えて檻を脱し、起業家となるバルラムの物語は、このような現実に対する痛烈な風刺になっている。
※ ラミン・バーラニの次回作は、再びアラヴィンド・アディガと組み、彼の新作『Amnesty』を映画化するとのこと。こちらもとても楽しみ(‘White Tiger’ Filmmaker Ramin Bahrani to Direct Film Adaptation of Aravind Adiga’s Novel ‘Amnesty’ for Netflix)。 |