インドのラクスマンガール村の貧しい家庭に生まれ育ったバルラム・ハルワイは、村で見かけた地主の次男の運転手になり、主人に付き従ってデリーに移るが、いくら勤勉に働いても将来はスラム街の小屋暮らしであることを思い知り、主人を殺害して運命を変えようとする。
本作のナラヤンは、インドのなかでも貧困が著しいビハール州の村ナーカティアガンジからムンバイに出てきた。そんなナラヤンを三輪タクシーから引きずりだした客は、彼の出身地を執拗に問い詰め、ビハール州であることがわかると差別的な感情をむき出しにし、「なんでムンバイに来た、炭鉱で働いていればいい」といって、激しい暴行を加える。
ここで筆者が注目したいのは、単に貧しい地域から都会に出てきた主人公が、そこで抑圧され、殺人者になるということではない。より重要なのは、『ザ・ホワイトタイガー』のバルラムが、「インドの1万年の歴史で最高の発明」と表現するもののことだ。その意味するところは、だいたいこのようになる。最高の発明とは「ニワトリの檻」(原作では「鳥籠」と表現されている)だ。ニワトリは血の匂いで自分の運命を知っても、暴れもせず、逃げようともしない。使用人も同じように育つ。1ルピーもくすねない。インド人が世界一正直で気高いからではなく、自分たちの99.9%が檻の中にいるからだ。もし主人の金を奪って逃げたらどうなるか。当人だけでなく家族もみな殺しにされてしまう。だから檻から出ようとはしない。
言葉を変えれば、主人公の家族がこの制度に取り込まれていて、都会に出た彼を村に縛り付けている。故郷の村に暮らすバルラムの祖母は、一方的に結婚するよう迫り、彼の未来を決めようとする。やがてデリーのバルラムの前に甥が現われ、祖母が結婚の話を進めていることを知り、彼は奴隷をやめる決意をする。本作でも、ナラヤンの母親が村から出てきて、息子が仲間と暮らす狭い部屋に居座り、執拗に結婚するよう迫り、彼を精神的に追い詰めていく。
そうなると、殺人は「ニワトリの檻」や「鳥籠」への反抗と見ることもできる。さらに本作では、そんな立場にあるナラヤンの男性性(masculinity)が強く意識されているところが興味深い。彼の男性性は、彼のことをばかにしている娼婦のルーパ、彼のことを無視する女性客、そして高圧的な母親によって打ち砕かれ、彼を凶行に駆り立てる。さらに、真実の追及を掲げて自分たちを正当化しつつ、ナラヤンと女性たちの関係にまで踏み込んでくるカメラの暴力も、彼を狂わせる一因となっている。
ただし、本作のこのような構成は、後半に盛り込まれたあるエピソードによって残念ながらその効力を失ってしまう。それは、ナラヤンと同居するモハンの告白だ。それによれば、ナラヤンはムンバイに出てくる前に村でも2人の人間を殺していたという。そうなると、村と都会の図式、家族による呪縛、「ニワトリの檻」や「鳥籠」のような社会的な視点が薄れ、ナラヤンはただのサイコパスになってしまう。
監督のミッタルは、キアロスタミの『クローズ・アップ』やスコセッシの『タクシードライバー』、塚本晋也の作品に影響を受けていると語っているので、社会的な視点は大いに意識していたはずだ。そう考えると、モハンの告白などを盛り込んだことが惜しまれる。 |