また、アクションにも個性が表れている。筆者が『ミックマック』のプロモーションで来日したジュネにインタビューしたとき、彼は映像表現について以下のように語っていた。
「私の映画には実写のマンガみたいなところがあり、おっしゃるようなアニメーション的な効果というのはとても重要だと思います。私はピクサーのアニメとか、あるいはバスター・キートンのスラプスティックなどをとても重視しています」
この発言のなかでここで注目したいのは、「バスター・キートンのスラプスティック」の部分だ。スピヴェットは鉄道の信号によじ登って信号を赤く塗って貨物列車を停め、警備員を振り切ってベルトコンベアに乗って貨車に着地する。ワイオミング州で途中停車したときにも、警備員とユーモラスな駆け引きを展開する。列車の終着地シカゴでは警官に見つかり、追いかけっこになるが、可動式の橋のおかげで負傷しつつも逃げ切る。こうしたアクションには、キートンのスラプスティックの魅力が取り込まれている。
これに対して、登場するキャラクターにはジュネらしさが欠けている。100年遅れて生まれてきた、身も心も考え方も純度100%のカウボーイである父親、人生の大半を、小さな生き物を顕微鏡で観察し、それを「種」と「亜種」に分類することに費やしてきた昆虫の専門家である母親、10歳にして並外れた観察力や創造力を発揮する天才科学者スピヴェット。こうした人物たちは、ジュネが好むキャラクターのように見える。だが、それはあくまで表層であって、彼らの感情までは引き出されていない。だから非常に平板に感じられるのだ。
それは『アメリ』と比較してみるとよくわかるだろう。この映画では、新しく人物が登場してくるたびに、その人物が好きなものや好きなことが紹介される。好きなことをやるのは間違いなく楽しいが、人間はいろいろ辛いことがあると、好きなことに逃避して気づかぬうちに孤立してしまい、ただ孤独を癒すために同じことを繰り返すようになる。
アメリの父親は、亡くなった妻が忘れられず、妻の分身であるかのように庭の小人の人形に執着し、家にこもってしまう。骨が脆い病気のために“ガラス男”と呼ばれる老人は、20年間も家にこもり、ルノワールの同じ絵の複製画を年に一枚のペースで描きつづけている。アメリが見つけた宝箱の持ち主は、ローストチキンを切り分け、最後に出てくる骨についた肉を食べることを至上の喜びにしているが、それを誰とも分かち合っていない。
この映画に登場する人物は、そんなふうに自分の好きなことにこもり、孤独を生きている。アメリは、悪戯心溢れるアイデアの数々で、彼らが好きだったはずのことを、もう一度好きなこととして甦らせていく。
だが新作では、スピヴェットの家出と両親の内面の変化が密接に結びつかない。そこに親子が絆を再確認するドラマはあっても、父親や母親は、最後まで同じようにカウボーイであり、昆虫博士なのだ。しかも、ジュネ独自の映像言語ではなく、受賞スピーチや母親の日記を通して、言葉で内面が表現されてしまう。だから、あくまで映像言語で内面の変化が表現される『アメリ』などに比べると、キャラクターが深みに欠ける。本来ならジュネの作品では、映像やイメージとキャラクターが一体となっているはずだが、この新作ではそれが分離してしまっている。 |