ジャン=ピエール・ジュネがマルク・キャロと作り上げた長編デビュー作『デリカテッセン』は、核戦争後の荒廃したパリに残る肉屋兼下宿屋を舞台にしたドラマだが、そのなかにこんな場面がある。店の主がセックスを始めると、一定のリズムを刻むベッドの軋みが部屋の外に漏れ出し、チェロを弾いたり、自転車のタイヤに空気を入れたり、ペンキを塗ったり、敷物をはたいたりする人物たちの動作が、そのリズムに同調していく。
ジュネが徹底的に作り込んだ映像を通して描き出すのは、「世界は見えないところで繋がっている」というヴィジョンだ。彼の映画では、孤独な登場人物たちが、そんなヴィジョンを切り開いていくが、初期の作品と最近の作品では、その意味に違いがある。
彼の初期の作品では、主人公たちのサバイバルを通して、それが浮かび上がる。『デリカテッセン』の主人公のピエロは、彼が“博士”と呼ぶ唯一の仲間を亡くし、肉屋にたどり着くが、後にその仲間がチンパンジーだったことがわかる。そんな彼は、肉に飢えた住人たちに囲まれ、肉屋の娘とともにサバイバルを繰り広げる。
レトロフューチャーな港町を舞台にした『ロスト・チルドレン』には、ごく普通の家族の姿がない。海底に暮らす天才学者、夢を見ることができないために急激に老化が進むクローン人間、自ら盲目になり、特殊なレンズでできた第三の目を装着した“一つ目教団”、孤児院を隠れ蓑に、子供たちに盗みを強要するシャム双生児の姉妹。そんな孤独に支配された世界のなかで、弟を誘拐された怪力男と九歳の少女が出会い、孤独の連鎖の源に導かれ、世界を変えていくのだ。
“エイリアン”シリーズもサバイバルの世界だが、ジュネは『エイリアン4』で、サバイバルに見せかけつつ、それを実に巧みに自己発見の物語に変えていく。リプリーは、単にクローンとして甦るのではない。腕に刻まれた「8」の数字が物語るように、彼女は、失敗の繰り返しの果てに生まれた八番目のクローンであり、しかも再生の目的はエイリアンを回収することにある。
研究対象として死を免れた彼女は、エイリアンとのハイブリッドな存在となった孤独を生きることを余儀なくされる。彼女と孤独なアンドロイド、そしてニューボーン・エイリアンは、見えない繋がりによって対峙する運命にある。そこでは、人間とエイリアンの対決という図式は崩壊し、苦痛に満ちた自己の確認が行われるのだ。
世界的な成功を収めた『アメリ』は、まさに自己発見の物語である。冷淡な父親と神経質な母親の間に生まれたアメリは、学校にも行けず、孤独を生きてきた。彼女の起源を語る映画の導入部は、いかにもジュネらしい。アメリとなる精子と卵子は、羽虫が路上にとまり、風がレストランのグラスを揺らし、葬式から戻った男が住所録の故人の名前を消すのと同時に出会った。そんな世界を意識することなく成長した彼女は、忘れられた宝箱の発見を契機に、見えない繋がりを見出し、繋がりを生み出し、殻を破っていくのだ。
新作の『ロング・エンゲージメント』は、導入部を観れば、ジャプリゾの原作に対するジュネの思い入れを理解できるだろう。連行される兵士の前を横切る電話線は、時空を越えてマチルドとマネクを繋ぐ糸でもある。その糸は何度も途切れるが、別の兵士と女の物語によって繋ぎ直される。マチルドは、彼らの物語を追体験することで、様々な痛みを受け止め、マネクへと迫っていくのだ。
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