筆者は昨年末(1997)に3作目の監督であるデイヴィッド・フィンチャーにインタビューしたのだが、彼はこの3作目の内的なドラマについてAIDSのメタファー≠ニいうように語っていた。そんな言葉も踏まえてみると、3作目から新作への展開はいっそう興味深く思えてくる。
3作目で彼女の肉体に侵入したウイルスとしてのエイリアンは、相容れない存在として描かれるがゆえに、精神的、宗教的なイメージが広がっていった。しかし新作で彼女は、肉体的な次元で内なるエイリアンとの共生関係を築き上げ、内的な闘争にサバイバルしたヒロインとして甦るわけだ。
エイリアンのシリーズは毎回、強い個性を持った監督が起用されるが、このヒロインの進化はそうした監督たちの個性によるところも大きいに違いない。実際、今回起用された『デリカテッセン』『ロスト・チルドレン』のフランス人監督ジャン=ピエール・ジュネは、
進化したヒロインを軸に彼ならではの世界を作りあげている。ジュネの映画はとかく視覚的な部分に関心が向かいがちになるが、筆者はその本質的なテーマは存在することの孤独であると思う。彼はそれをきわめてユニークな悪夢的ヴィジョンのなかに描くのだ。
たとえば『ロスト・チルドレン』では、レトロ・フューチャーな世界を舞台に、マッド・サイエンティストやクローン、孤児たちにシャム双生児の姉妹、蚤遣いなど実に様々なキャラクターが登場するが、その世界には家族というものが見当たらない。そこで彼らは世界から見捨てられたものの孤独を露にし、
自分を癒すために、奇妙な宗教に引き込まれたり、子供の夢を盗もうとしたり、完全な存在というものに強く惹きつけられていくのだ。
『エイリアン4』のリプリーもまた、進化を遂げたがゆえに見捨てられた者の孤独を生き、進化の裏側に隠蔽された悪夢のような現実に打ちのめされながら、生き残っていくことを余儀なくされる。一方、エイリアンも科学者の実験によって人間とハイブリッド化していく。
それゆえにこの映画には、人間とエイリアンという明確な境界で割り切ることのできない生き物たちの言葉にしがたい感情が広がっていくことになる。さらにロボットという存在もジュネにかかると孤独ゆえの感情を垣間見せることはいうまでもない。
ヒロインだけではなくドラマもまた前作の内的な葛藤から存在をめぐる根源的な哀しみへとさらなる進化を遂げているのである。 |