しかも、そうした観点からこのドラマを見直してみると、何とも皮肉な悪循環の構図が浮かび上がってくることになる。クローンを作った学者は、実験室を追われ、海底で古ぼけた過去の残骸に囲まれて孤独な人生を送っている。
夢を見ることができないクランクは、さらった子供から夢の想像力を奪おうとするが、孤独を癒すための歯車が完全に狂ってしまったこの世界では、その子供たちからも悪夢しか得られず、いっそう孤独に苛まれていく。
さらに、ひとつ目教団のメンバーの存在というのも実に皮肉なものである。彼らは、第三の目を失ってしまえば、完全な盲目となってしまい、孤独な闇の世界を生きていかなければならないのだ。
要するに、これは、孤独が孤独を生むという悪循環のなかで崩壊しつつある世界なのである。しかも、この孤独なイメージは、この世界の隅々にまで見事に浸透している。たとえば、水槽のなかで生きつづける頭痛持ちの脳などはその象徴である。
もちろん、蚤をペットにする蚤使いのマルチェロも孤独の翳を色濃く背負っている。こんなふうにたくさんの孤独な姿を見渡していくと、シャム双生児のリーヌとゼットなども、生まれながらの宿命を背負って生きているというよりは、
孤独が彼女たちを結びつけ、離れられなくなってしまったことを象徴しているようにすら思えてくるのである。
また一方では、この舞台があらためてとてもリアルなものに見えてくる。この港町には、いずれ海に沈んでしまうことを予感させるような雰囲気が漂っているが、それは、孤独の悪循環のなかで崩壊していく世界の暗示ととることができるからだ。
しかしながら、この映画の世界のなかでは、孤独を癒すための歯車が完全に狂ってしまっているわけではない。見せ物小屋の怪力男ワンは、二才の少年ダンレーを弟として家族の絆を培っている。
そして、そのダンレーがさらわれてしまい、ヒロインのミエットが、どんなことをしても弟を取り戻そうとするワンに淡い恋心を抱いたとき、この孤独な悪循環の世界にささやかな光がさし、実に魅力的なお伽話が綴られていくことになる。
そこで筆者がどうしても注目したいのが、このワンの存在である。単純に考えれば、彼は、夢が失われた世界のなかで、純粋無垢な心を失っていない人物というように思われるだろうが、ただそれだけの存在ではない。
前作「デリカテッセン」で、恐怖の肉屋に住み込むことになる主人公がサーカスの芸人で、このワンが見せ物小屋の怪力男であるというように、ジュネ&キャロのコンビは、サーカスや見せ物小屋の芸人というものに強いこだわりを持っている。
映画好きの人であれば、こうした主人公の姿から、同じようにサーカスや大道芸人を好んで描いたフェリーニの世界を連想することだろう。
そんなフェリーニにも通じるこのコンビのこだわりとは何なのかといえば、それは、道化的な存在の魅力ということになる。この道化的な存在を説明するのは、なかなか厄介だが、とても参考になる面白い本がある。
それは、コンスタンティン・フォン・バルレーヴェンという学者が書いた「道化 つまずきの現象学」である。この本は、中世の宮廷における愚者からインディアンの世界におけるトリックスター、サーカスの道化師、さらには、チャップリンやキートン、
そして、怪力男ワンにも通じるフェリーニの「道」のザンパーノまで幅広い参照を通して、道化的な存在の魅力を明らかにしている。
その本のなかに、孤独をめぐる道化=クラウンと一般人の違いを語るこんな表現がある。「クラウンは人びとになり代わって雄々しい孤独に耐えながら、サーカスの円蓋のもと、小屋のホールに、一つの星のように暗く果てしない空間を貫いて一つの軌道を描き、
観る者たちに先駆けの一歩を踏みだしてみせる。その孤独には苦悩と偉大が秘められている。クラウンがあらわな孤独を誇示しているのに対して、現代の人間がみせているのは見捨てられた者の姿である」
この最後の一文は特に興味深いことと思う。要するに、道化と一般の人間では孤独に対する姿勢がまったく違うということだ。「ロスト・チルドレン」のなかで、海底に暮らす学者や欠陥のクローン、ひとつ目教団のメンバーたちは、まさしく
現代の人間がみせる見捨てられた者の姿≠ナあり、一方、怪力男ワンは、孤独に耐え、孤独を誇示し、道化的な魅力を放っている。彼は、無意識のうちに培ったこの道化的な魅力を発揮することによって、秩序が狂った世界に揺さぶりをかけ、
ヒロインのミエットは、そんな彼の存在に惹かれていくことになるのだ。
ジュネ&キャロの作品というと、どうしてもユニークな映像に目を奪われてしまいがちになるが、こんなふうに見てくると、とても奥が深いことがよくわかる。それは、前作の「デリカテッセン」も例外ではない。あの恐怖の肉屋とその住人は、
形骸化した家族と社会の象徴であり、主人公と肉屋の娘は、そんな世界に揺さぶりをかけることになるからだ。そういう意味では、「ロスト・チルドレン」は、ジュネ&キャロが、あふれんばかりの想像力を注ぎ込んで彼らの想いをとことん出し切った作品といえる。
現実というものを、これほど幻想的に、しかももう一方で、これほどリアルに描いた映画というのも珍しいのではないだろうか。 |