ロスト・チルドレン
La Cite des Engants Perdus / The City of Lost Children


1995年/フランス/カラー/112分/1:1.85
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(初出:「ロスト・チルドレン」劇場用パンフレット原稿、若干の加筆)

 

 

人間の孤独と道化の孤独

 

 ジュネ&キャロのコンビにとって5年ぶりの新作となる「ロスト・チルドレン」は、いかにもこのコンビらしいとんでもなくユニークなアイデアがふんだんに盛り込まれ、実に見どころの多い作品になっている。

 歴史を感じさせる古びた町並みが迷宮を作る港町、その沖合に屹立するゴシック的な雰囲気を漂わせる実験室。闇に包まれ、怪しい月の光に浮かび上がるのは、時間の流れがよどんむレトロで近未来的な世界だ。 そこには、6人がまったく同じ容姿をしていたり、夢を見ることができないために急激に老化がすすむクローン人間、水槽のなかで生きつづける頭痛持ちの脳、自ら盲目となり、 特殊なレンズでできた第三の目を装着することによって隠された現実を暴こうとする狂信的なひとつ目教団=A孤児院を隠れ蓑にして、孤児たちに盗みを強要するシャム双生児の姉妹といった奇妙な連中が跳梁している。

 さらに、映像の方も凝りに凝っている。この舞台や登場人物だけでもとんでもなくユニークな世界になっているというのに、このコンビは、それに加えて様々に視点のことなる映像イメージを駆使する。 たとえば、映画の冒頭では、サンタクロースが無限に増殖して家を占領したり、トナカイがところかまわず糞をしまくるというような何ともシュールな悪夢が広がっていく。

 かと思えば、蚤をオルゴールで自在に操る男が登場する場面では、 蚤の活躍がスーパーリアルな映像で描きだされる。あるいは、9才のヒロイン、ミエットのとても子供とは思えない冷たく妖しい魅力と無垢な怪力男ワンのコントラストや謎めいたクローンたちの姿は、大人と子供の境界までも曖昧にし、 不思議な雰囲気をかもしだしている。おそらく観客は、こうしたユニークなアイデアが散りばめられたワンダーランドに思わず引き込まれてしまうことだろう。

 しかしながら、この映画は、ただどこまでも現実離れした幻想の空間を作り上げて、観客を楽しませようとするだけの作品ではない。

 筆者がこの映画でまず非常に印象的だったのは、これだけたくさんの集団や人物が登場してくるにもかかわらず、一般的な意味での家族というものがまったく見当たらないということである。 もちろん、もともとお伽話というものにはそういう傾向があることは確かだが、この映画の徹底ぶりというのは明らかに異彩を放っている。

 そこで、この映画に登場する人物たちの設定、キャラクター、背負っているイメージなどをじっくりと振り返ってみると、彼らの存在がすべて孤独≠ニいうものからひもとかれていることがわかってくる。

 この映画の後半でその正体が次第に明らかになっていく天才学者は、なぜクローンを作ったのだろうか。才能を証明したいという野心や欲得といったことも考えられないではないが、海底に暮らす彼の姿を見れば、 孤独がこの学者に欠陥のあるクローンを作らせてしまったのだと思えるはずだ。それでは、そのクローンたちはどうかといえば、彼らは、夢や若さと美貌、 自分たちのオリジナルといった彼らに欠落しているものに苛まれ、やはりそれぞれに孤独を生きている。

 さらに、孤独ゆえに厳しい現実から目を背けようとする人々は、ひとつ目教団の一員となって、孤独を忘れるのと引換えにこの集団に隷属させられることになる。孤独なストリート・キッズは、 孤児院で仲間を得られるが、盗みを強要され、非情な大人の世界に組み込まれている。

 ということは、一見すると突飛で現実離れしているように見えるこの映画の登場人物たちは、現代社会と深いところで呼応していることにもなる。つまり、いま上げたような登場人物たちというのは、 夢のない貧しい想像力ゆえに、自分の孤独を癒すための歯車がどこかで狂ってしまった現実の人々のイメージを、それぞれに幻想的な世界のなかでとことん誇張することから作り上げられているということである。 そんなふうに考えてみると、新興宗教の教団や足かせをはめられたような子供たちの姿は妙にリアルに見えてくるはずだ。


◆スタッフ◆

美術監督
マルク・キャロ
Marc Caro
監督 ジャン=ピエール・ジュネ
Jean-Pierre Jeunet
製作 クローディ・オサール
Claudie Ossard
脚本 ジル・アドリアン/ジャン=ピエール・ジュネ
Gilles Adrien/Jean-Pierre Jeunet
撮影 ダリウス・コンディ
Darius Khondji
編集 エルヴェ・シュネー
Herve Schneid
衣装 ジャン=ポール・ゴルチエ
Jean-Paul Gaultier
音楽 アンジェロ・バダラメンティ
Angelo Badalamenti

◆キャスト◆

ワン
ロン・パールマン
Ron Perlman
ミエット ジュディット・ビッテ
Judith Vittet
潜水夫(博士)+クローン ドミニク・ピノン
Dominique Pinon
クランク ダニエル・エミルフォルク
Daniel Emilfork
蚤の調教師
マルチェロ
ジャン・クロード・ドレフュス
Jean Clande Dreyfus
シャム双生児
リーヌ
オディール・マレ
Odile Mallet
シャム双生児
ゼット
ジュヌヴィエーヴ・ブリュネ
Genevieve Brunet
ピスムス ミレイユ・モス
Mireille Mosse
ペラド リュフュ
Rufus
アンジ・ジョセフ マルク・キャロ
Marc Caro
イルヴィンの声 ジャン=ルイ・トランティニャン
Jean-Louis Trintignant
 
 
 
 


 しかも、そうした観点からこのドラマを見直してみると、何とも皮肉な悪循環の構図が浮かび上がってくることになる。クローンを作った学者は、実験室を追われ、海底で古ぼけた過去の残骸に囲まれて孤独な人生を送っている。 夢を見ることができないクランクは、さらった子供から夢の想像力を奪おうとするが、孤独を癒すための歯車が完全に狂ってしまったこの世界では、その子供たちからも悪夢しか得られず、いっそう孤独に苛まれていく。 さらに、ひとつ目教団のメンバーの存在というのも実に皮肉なものである。彼らは、第三の目を失ってしまえば、完全な盲目となってしまい、孤独な闇の世界を生きていかなければならないのだ。

 要するに、これは、孤独が孤独を生むという悪循環のなかで崩壊しつつある世界なのである。しかも、この孤独なイメージは、この世界の隅々にまで見事に浸透している。たとえば、水槽のなかで生きつづける頭痛持ちの脳などはその象徴である。 もちろん、蚤をペットにする蚤使いのマルチェロも孤独の翳を色濃く背負っている。こんなふうにたくさんの孤独な姿を見渡していくと、シャム双生児のリーヌとゼットなども、生まれながらの宿命を背負って生きているというよりは、 孤独が彼女たちを結びつけ、離れられなくなってしまったことを象徴しているようにすら思えてくるのである。

 また一方では、この舞台があらためてとてもリアルなものに見えてくる。この港町には、いずれ海に沈んでしまうことを予感させるような雰囲気が漂っているが、それは、孤独の悪循環のなかで崩壊していく世界の暗示ととることができるからだ。

 しかしながら、この映画の世界のなかでは、孤独を癒すための歯車が完全に狂ってしまっているわけではない。見せ物小屋の怪力男ワンは、二才の少年ダンレーを弟として家族の絆を培っている。 そして、そのダンレーがさらわれてしまい、ヒロインのミエットが、どんなことをしても弟を取り戻そうとするワンに淡い恋心を抱いたとき、この孤独な悪循環の世界にささやかな光がさし、実に魅力的なお伽話が綴られていくことになる。

 そこで筆者がどうしても注目したいのが、このワンの存在である。単純に考えれば、彼は、夢が失われた世界のなかで、純粋無垢な心を失っていない人物というように思われるだろうが、ただそれだけの存在ではない。 前作「デリカテッセン」で、恐怖の肉屋に住み込むことになる主人公がサーカスの芸人で、このワンが見せ物小屋の怪力男であるというように、ジュネ&キャロのコンビは、サーカスや見せ物小屋の芸人というものに強いこだわりを持っている。 映画好きの人であれば、こうした主人公の姿から、同じようにサーカスや大道芸人を好んで描いたフェリーニの世界を連想することだろう。

 そんなフェリーニにも通じるこのコンビのこだわりとは何なのかといえば、それは、道化的な存在の魅力ということになる。この道化的な存在を説明するのは、なかなか厄介だが、とても参考になる面白い本がある。 それは、コンスタンティン・フォン・バルレーヴェンという学者が書いた「道化 つまずきの現象学」である。この本は、中世の宮廷における愚者からインディアンの世界におけるトリックスター、サーカスの道化師、さらには、チャップリンやキートン、 そして、怪力男ワンにも通じるフェリーニの「道」のザンパーノまで幅広い参照を通して、道化的な存在の魅力を明らかにしている。

 その本のなかに、孤独をめぐる道化=クラウンと一般人の違いを語るこんな表現がある。「クラウンは人びとになり代わって雄々しい孤独に耐えながら、サーカスの円蓋のもと、小屋のホールに、一つの星のように暗く果てしない空間を貫いて一つの軌道を描き、 観る者たちに先駆けの一歩を踏みだしてみせる。その孤独には苦悩と偉大が秘められている。クラウンがあらわな孤独を誇示しているのに対して、現代の人間がみせているのは見捨てられた者の姿である」

 この最後の一文は特に興味深いことと思う。要するに、道化と一般の人間では孤独に対する姿勢がまったく違うということだ。「ロスト・チルドレン」のなかで、海底に暮らす学者や欠陥のクローン、ひとつ目教団のメンバーたちは、まさしく 現代の人間がみせる見捨てられた者の姿≠ナあり、一方、怪力男ワンは、孤独に耐え、孤独を誇示し、道化的な魅力を放っている。彼は、無意識のうちに培ったこの道化的な魅力を発揮することによって、秩序が狂った世界に揺さぶりをかけ、 ヒロインのミエットは、そんな彼の存在に惹かれていくことになるのだ。

 ジュネ&キャロの作品というと、どうしてもユニークな映像に目を奪われてしまいがちになるが、こんなふうに見てくると、とても奥が深いことがよくわかる。それは、前作の「デリカテッセン」も例外ではない。あの恐怖の肉屋とその住人は、 形骸化した家族と社会の象徴であり、主人公と肉屋の娘は、そんな世界に揺さぶりをかけることになるからだ。そういう意味では、「ロスト・チルドレン」は、ジュネ&キャロが、あふれんばかりの想像力を注ぎ込んで彼らの想いをとことん出し切った作品といえる。 現実というものを、これほど幻想的に、しかももう一方で、これほどリアルに描いた映画というのも珍しいのではないだろうか。

《引用文献》
「道化 つまずきの現象学」●
C・v・パルレーヴェン著 片岡啓治訳 (法政大学出版局)
 
 
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