ダークシティ
Dark City


1998年/アメリカ/カラー/100分/スコープサイズ/ドルビーSRD・DTS・SDDS
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(初出:「キネマ旬報」1998年12月上旬号、若干の加筆)

サバービアと都市、『ダークシティ』と『トゥルーマン・ショー』
現実と虚構のせめぎ合いと、その先に見えてくるもの

 『ダークシティ』は、オーストラリア映画界から頭角を現し、『クロウ/飛翔伝説』でハリウッド・デビューを果たしたアレックス・プロヤス監督の新作だ。筆者には、この作品が、ピーター・ウィアー(というよりもオリジナル脚本を書いたアンドリュー・ニコル)の『トゥルーマン・ショー』と同時期に公開されるというのが非常に興味深いことのように思える。

 この二本の映画では、それぞれに主人公をとりまく世界が実は作り物であることが明らかになり、個人の現実が崩壊していくという共通点があるばかりではなく、双方の映画から浮かび上がるヴィジョンは見事にコインの裏表をなしているからだ。

 その裏表の出発点となるのは、都市とサバービア(郊外住宅地)の関係だ。都市とサバービアは現代社会のなかで対極にある空間であり、ふたつの空間をめぐる感情は、映画その他の表現における都市とサバービアのイメージを開拓し深化させる力の源ともなっている。

 たとえば、アメリカで郊外化が激しい勢いで進行した戦後から50年代にかけて、フィルム・ノワールが量産され、暴力とセックスに満ちたミッキー・スピレインのマイク・ハマー・シリーズが爆発的な人気を博したのは偶然ではない。人々は、すべてが真新しく、明るく清潔、安全で健康的なサバービアの生活を謳歌したが、一方で彼らの抑圧された欲望がフィルム・ノワールやスピレインにダークな世界の刺激を求めていたからだ。

 バーバンクのサバービア育ちであるティム・バートンは『シザーハンズ』で、パステルカラーに統一された家並みが単に明るいというよりは非現実的にも見えるサバービアのはずれにゴシック的な屋敷を作り上げた。その屋敷には、どこにいても他者の目がとどく死角のないサバービア空間のなかで影を求める子供の心理が象徴されていた。そしてもちろん、この象徴的な屋敷は、バートンが『バットマン』シリーズで作りあげたゴッサム・シティの世界につながっている。

 映画のなかのサバービアと都市は、それぞれに人々の表層と深層を表象し、前者が明るければ明るいほどに後者は深い闇に包まれていくといってもいいだろう。そして、『ダークシティ』と『トゥルーマン・ショー』では、ある種共通するSF的なアイデアを駆使することによってこの深層と表層にそれぞれに大胆なひねりが加えられ、ユニークな視点から掘り下げられていく。

サバービアの世界を描く『トゥルーマン・ショー』については、アンドリュー・ニコルがこの作品の前に監督/脚本を手がけた近未来SF映画『ガタカ』を観ると、その主題の深さというものがよくわかる。


◆スタッフ◆
 
監督/原案/脚本/製作   アレックス・プロヤス
Alex Proyas
脚本 レム・ドブス、デイヴィッド・S・ゴイヤー
Lem Dobbs, David S.Goyer
撮影 ダリウス・ウォルスキー
Dariusz Wolski
編集 ドブ・ホーニグ
Dov Hoenig
音楽 トレヴァー・ジョーンズ
Trevor Jones
 
◆キャスト◆
 
ジョン・マードック   ルーファス・シーウェル
Rufus Sewell
バムステッド刑事 ウィリアム・ハート
William Hurt
シュレーバー博士 キーファー・サザーランド
Kiefer Sutherland
エマ・マードック ジェニファー・コネリー
Jennifer Connelly
Mr.ハンド リチャード・オブライエン
Richard O’brien
Mr.ブック イアン・リチャードソン
Ian Richardson
Mr.ウォール ブルース・スペンス
Bluce Spence
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(配給:ギャガ・ヒューマックス)
 
 

 『ガタカ』の近未来世界では、裕福な夫婦は遺伝子操作によって優れた子供を作ることができる。しかしいかに優れた子供とはいえそれは遺伝子工学というテクノロジーの産物であり、誰もが同じことをやれば子供は画一化していき、自分から何かを変えようという意志すら持たなくなる。

 それはサバービアの世界に通じるものがある。裕福な家庭は人工的で完璧なサバービアの世界で子供を育てようとすれば、結果として子供は画一化していくということだ。『トゥルーマン・ショー』の主人公トゥルーマンは、そんな究極の人工的世界で純粋培養されていることになる。そこにはどこにも影はなく、すべては表の世界である。

 この番組を制作したプロデューサーは、たとえすべてが虚構であることが主人公に露見しても彼は虚構を受け入れて生きていくと確信している。安全な世界を放棄する人間などいるはずがないと考えているからだ。映画は、そんな確信をめぐって主人公の表層からはとらえられない部分を見つめていくことになる。

 アレックス・プロヤスの世界というのは、このニコルの世界とは見事に対照的である。コミックを映画化した前作の『クロウ』でも闇に包まれた都市が際立っていたが、『ダークシティ』でも陽がのぼることがなく闇が支配する都市が浮かび上がり、フィルム・ノワールが幕をあける。

 主人公マードックは、とあるホテルのバス・ルームで、場所も時間も自分の正体もわからない完全な記憶喪失状態で目覚める。彼は真実を求めて街をさまようが、その足跡は連続殺人事件の現場に重なっていく。しかし次第に、トゥルーマンがサバービアならではのホーム・ドラマという虚構を生きていたように、マードックもこの都市ならではの虚構を生きていることが明らかになっていく。

 この主人公や街全体を操っているのは、宇宙から新天地を求めてやってきた“異邦人”たちだ。彼らは、精神科医を手先として住人たちの記憶を自在に入れ替え、彼らの深層を引きだすような虚構を構築して人間を観察し、魂の所在を突き止めようと腐心している。その異邦人たちのイメージは、この都市で巻き起こっている深刻な状況に照らすとひどく浮いていて滑稽でもあるが、もちろん映画の見所は別なところにある。

 プロヤスの前作『クロウ』では、冥界から甦った主人公エリックが、不死身の力を肉体に宿しているだけではなく、他人に触れることによって相手の記憶を読み取ることができる能力を備え、記憶が彼を復讐に駆り立て、ラストでは読み取った記憶が窮地に陥った彼を救うという展開が印象的だった。

 しかしこの『ダークシティ』では、その記憶さえもが完全に操られるばかりか、異邦人たちの特殊な能力によって都市は夜毎変貌する。そんなふうに深層が危うい地平へと追いやられていくなかで、主人公がいかにして虚構の世界から逃れ、出口を見出すことができるのかというところに関心が向かうわけだ。

 その結末には『トゥルーマン・ショー』とどこか共鳴するものがある。『トゥルーマン・ショー』のラストには、仮に主人公が脱出をとげたとしても、それは限りなく現実に近い虚構が限りなく虚構に近い現実に変わるだけであるという含みがあり、その含みにこそサバービアの不気味なリアリティがある。

 『ダークシティ』の場合は、物語がSF的な展開にかなり踏み込んでしまうために、表現はいささか極端になってしまうのだが、ラストにはタルコフスキーの『惑星ソラリス』のそれを思わせる世界の転倒があり、やはり現実と虚構の境界が曖昧なものになっていく。


(upload:2012/12/23)
 
 
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