『ガタカ』の近未来世界では、裕福な夫婦は遺伝子操作によって優れた子供を作ることができる。しかしいかに優れた子供とはいえそれは遺伝子工学というテクノロジーの産物であり、誰もが同じことをやれば子供は画一化していき、自分から何かを変えようという意志すら持たなくなる。
それはサバービアの世界に通じるものがある。裕福な家庭は人工的で完璧なサバービアの世界で子供を育てようとすれば、結果として子供は画一化していくということだ。『トゥルーマン・ショー』の主人公トゥルーマンは、そんな究極の人工的世界で純粋培養されていることになる。そこにはどこにも影はなく、すべては表の世界である。
この番組を制作したプロデューサーは、たとえすべてが虚構であることが主人公に露見しても彼は虚構を受け入れて生きていくと確信している。安全な世界を放棄する人間などいるはずがないと考えているからだ。映画は、そんな確信をめぐって主人公の表層からはとらえられない部分を見つめていくことになる。
アレックス・プロヤスの世界というのは、このニコルの世界とは見事に対照的である。コミックを映画化した前作の『クロウ』でも闇に包まれた都市が際立っていたが、『ダークシティ』でも陽がのぼることがなく闇が支配する都市が浮かび上がり、フィルム・ノワールが幕をあける。
主人公マードックは、とあるホテルのバス・ルームで、場所も時間も自分の正体もわからない完全な記憶喪失状態で目覚める。彼は真実を求めて街をさまようが、その足跡は連続殺人事件の現場に重なっていく。しかし次第に、トゥルーマンがサバービアならではのホーム・ドラマという虚構を生きていたように、マードックもこの都市ならではの虚構を生きていることが明らかになっていく。
この主人公や街全体を操っているのは、宇宙から新天地を求めてやってきた“異邦人”たちだ。彼らは、精神科医を手先として住人たちの記憶を自在に入れ替え、彼らの深層を引きだすような虚構を構築して人間を観察し、魂の所在を突き止めようと腐心している。その異邦人たちのイメージは、この都市で巻き起こっている深刻な状況に照らすとひどく浮いていて滑稽でもあるが、もちろん映画の見所は別なところにある。
プロヤスの前作『クロウ』では、冥界から甦った主人公エリックが、不死身の力を肉体に宿しているだけではなく、他人に触れることによって相手の記憶を読み取ることができる能力を備え、記憶が彼を復讐に駆り立て、ラストでは読み取った記憶が窮地に陥った彼を救うという展開が印象的だった。
しかしこの『ダークシティ』では、その記憶さえもが完全に操られるばかりか、異邦人たちの特殊な能力によって都市は夜毎変貌する。そんなふうに深層が危うい地平へと追いやられていくなかで、主人公がいかにして虚構の世界から逃れ、出口を見出すことができるのかというところに関心が向かうわけだ。
その結末には『トゥルーマン・ショー』とどこか共鳴するものがある。『トゥルーマン・ショー』のラストには、仮に主人公が脱出をとげたとしても、それは限りなく現実に近い虚構が限りなく虚構に近い現実に変わるだけであるという含みがあり、その含みにこそサバービアの不気味なリアリティがある。
『ダークシティ』の場合は、物語がSF的な展開にかなり踏み込んでしまうために、表現はいささか極端になってしまうのだが、ラストにはタルコフスキーの『惑星ソラリス』のそれを思わせる世界の転倒があり、やはり現実と虚構の境界が曖昧なものになっていく。 |