クリント・イーストウッドの監督作品で筆者の興味を引くもののひとつに、世代が異なる根無し草同士の旅の構図がある。その出発点になっているのは、イーストウッドの監督作ではないが、彼がマイケル・チミノを監督に起用した『サンダーボルト』ではないかと思う。豪快な手口で金庫を破る銀行強盗のサンダーボルトと器用ですばしっこい若者ライトフットの旅には、アクション映画と一線を画す魅力があった。
その後この構図は、イーストウッドの監督作のなかで、様々にかたちを変えながら発展していく。それはたとえば、南北戦争末期に“ひとりの軍隊”と呼ばれて恐れられた一匹狼と彼が北軍の罠から救った南軍の若者の逃避行(『アウトロー』)であり、肺を病んだシンガーと彼の甥である少年がナッシュビルを目指す旅(『センチメンタル・アドベンチャー』)であり、モダンジャズの巨人パーカーと若き白人トランペッター、レッドが南部をツアーする旅(『バード』)であり、エキセントリックで破滅的な映画監督と自分を抑制する術を心得ている脚本家がアフリカで映画を作る旅(『ホワイト・ハンター ブラック・ハート』)である。
彼らの旅を見ていて筆者がいつも思いだすのは、作家のノーマン・メイラーが『僕自身のための広告』というエッセイ集に書いているヒップスターのことだ。メイラーはアメリカ的な実存主義者であるヒップスターをこのように説明している。それは、「死の条件を受け入れ、身近な危険としての死とともに生き、自分を社会から切り放し、根なしかずらとして存在し、自己の反逆的な至上命令への、地図もない前人未踏の旅に立つこと」を自分に課す人間である。
主にイーストウッド自身が扮する主人公は常にヒップスターとして生き、彼と行動をともにする若者は、その旅のなかでヒップスターとして生きることの厳しい現実を思い知り、ある時は力尽き、またある時は自分に相応しい世界へと帰っていく。そんなドラマにアメリカを感じるのだ。
しかし彼の近作ではこの構図に変化が見られる。それをよく物語るのが『許されざる者』だ。この映画にも、かつて冷酷な殺人鬼と恐れられた男マニーといっぱしの賞金稼ぎを気取った若者キッドの旅があるが、以前に比べると若者の存在が薄い。その一方で印象的なのが、かつてのマニーの仲間で、旅に加わるネッドの存在である。若者から賞金稼ぎの話を持ちかけられたマニーは、ネッドを加えることを条件にする。また映画の結末でも彼は、若者ではなくネッドとの絆に対してけじめをつける。
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