初代FBI長官J・エドガー・フーヴァー(1895-1972)を題材にしたクリント・イーストウッド監督の『J・エドガー』の世界に入り込むためには、いくらか予習が必要かもしれない。フーヴァーはFBIを強力な組織に育てあげ、48年に渡って長官の座に君臨し、8人もの大統領に仕えた。
そんな彼は国民的英雄と讃えられる一方で、膨大な個人情報を密かに収集し、それを武器に権力を振るった。生前から同性愛者という噂が流れていたが、それが事実だとすれば、敵対する政治家にダメージを与えるために同性愛者という情報を流すような卑劣な手段を使っていた彼は、自分にも怯えていたことになる。
この映画では、20代から77歳に至るフーヴァーの人生の断片が、時間軸を自在に操りながら描き出されていく。筆者はフーヴァーの実像に迫るアンソニー・サマーズの『大統領たちが恐れた男』を読んだことがあったので、さほど気にならなかったが、予備知識がないとそんな複雑な構成に振り回され、テーマがぼやけてしまいかねない。
最近のイーストウッド作品で重要な分岐点になっているのは『グラン・トリノ』だが、この映画にはそれを思い出させる視点が埋め込まれている。『グラン・トリノ』では、それまでの「死者の声に耳を傾ける立場」が、生死の境界を超えて「死者の声を届ける立場」に変わる。主人公が命を懸けて届けた声は、“グラン・トリノ”という遺産を、誰がどのように相続するのかで示されていた。
『J・エドガー』は、人生の終盤にさしかかったフーヴァーが、回顧録の作成に取りかかるところから始まる。その回顧録は彼が届けようとする死者の声といえるが、そこに真実はない。彼はこれまで情報を操作して作り上げてきた伝説を完璧なものにしようとする。
だが、死が現実味を帯びるにしたがって、いま持っている権力と遺産の違いというものが露になっていく。彼は本来の自己に繋がる遺産を誰にも委ねることができない。『グラン・トリノ』の死者の声は、主人公の懺悔と深く結びついていたが、この映画にも異なるかたちの懺悔を垣間見ることができる。
フーヴァーは最後に権力者ではなく一個人として信頼する個人秘書にある事を頼み、伝説に呑み込まれていくのだ。 |