たとえば、ルーズヴェルトは、彼の長官留任に疑問を感じていたという。ところが、フーヴァーは、国民にアピールするような派手な犯罪に的を絞り、マスコミを抱き込むことによって大恐慌の時代の英雄として持て囃されるようになる。するとルーズヴェルトは、フーヴァーの人気に便乗してしまうばかりか、ついには彼に、情報収集に関して盗聴も含む幅広い権限を与えてしまう。トルーマンは、FBIの盗聴が露顕しかけたとき、長官の更迭を真剣に検討するが、今度は、冷戦に対する国民の不安がまたもやフーヴァーの人気を押し上げ、思い止まらざるをえなくなってしまう。
ケネディ兄弟は、本気でフーヴァーを追い出そうとするが、モンローとのスキャンダルのもみ消し工作で借りを作ってしまい、仕方なく彼が70歳の定年を迎えるのを待つという持久戦に出る。しかしながら、大統領は凶弾に倒れ、すでにフーヴァーの息がかかっていたジョンソン新大統領は、彼の定年を無期限に延長するという大統領命令を出さざるをえなくなる。フーヴァーが40年代から目をつけ、親交を深めていたニクソンは、それでも何とか耄碌している長官を切ろうとするが、土壇場で怖じ気づいてしまう。要するに、フーヴァーに権力をもたらすのは、メディアに踊る国民や保身に躍起になる政治家であり、アメリカ社会そのものでもあるのだ。
そして、本書でもうひとつ注目したいのは、人間フーヴァーの内面に潜む病理についてである。彼が生涯独身で通したのは比較的よく知られている。本書には、彼が実は同性愛者で、マフィアの摘発に消極的だったのは、その秘密をマフィアに握られていたからというかなり説得力のある示唆や、さらに、彼が女装して乱交パーティに顔を出していたのを二度までも目撃したという証言などが盛り込まれている。彼はFBI長官として、厳しい道徳を前面に押しだし、法と正義に忠実でタフなイメージを演出し、その背後では、敵対する政治家にダメージを与えるために同性愛者という情報を流すような卑劣な手段を使っていた。しかし同時に彼は、自分に対してもひどく怯え、混乱していたことになる。
これは、いかにもスキャンダルの暴露のように見えるが、著者は本書のエピローグでフーヴァーの生い立ちを振り返り、彼のこの精神的な混乱に対する分析を試みている。フーヴァーの父親は精神病を患い、彼は父親との絆が希薄で、母親の期待を一身に背負うように成長してきた。そうした背景について、心理学や精神医学の専門家に助言を求めた著者は、最終的にフーヴァーの人格について、ナチスの秘密警察長官ヒムラーと多くの共通項があることを示唆する。このような意見は、評伝の流れからすればいささか突飛な印象も与えるが、そこにはもっと現実的な著者の危機感が現れていると見るべきだろう。
本書のプロローグには、著者のこんな言葉がある。「J・エドガー・フーヴァーという人物の生涯が、アメリカン・ドリームが無惨に砕け散った時代と重なっているので、この人物を理解することは、たぶん、われわれ自身を理解するのに役立つはずだ」
そんな思いが著者を、フーヴァーという人物の深層へと駆り立て、このエピローグを書かせたのだ。 |