クリント・イーストウッド監督の『アイガー・サンクション』はトレヴェニアンの同名小説の映画化である。この原作と映画を比べてみて筆者が興味をそそられるのは、物語の流れに対するアプローチだ。原作と映画ではその流れに大きな違いがある。
この物語は、その舞台が変わることによって大きく三つに分けることができる。第一部は、主人公ジョナサンが残る標的の制裁を引き受けるまで。第二部は、アリゾナにおける登山仲間ベンとのトレーニング。最後はもちろん、アイガーにおける制裁の顛末である。
原作では、物語にジョナサンの回想を巧みに織り込むことによって、彼の複雑な人物像や人間関係を明らかにし、この三つの部分を繋ぐ底流が作り上げられている。しかし映画となると、スリラーやアクションの要素を生かしつつ、複雑な人物像や人間関係を掘り下げていくのは難しい。
実際、この映画では、ジョナサンにしても他の登場人物にしても、その人物像はほとんど掘り下げられていない。というよりも、その部分に関しては最初から切り捨てられている。それだけに人物を通して三つの部分を繋ぐような底流が見えてくることはない。しかし、別のいくつかの要素を強調し、絡ませることによって、それを補っている。
■■登ることと殺しの結びつき■■
ひとつは登ることと殺しの結びつきだ。第一部でジョナサンは最初の標的を制裁するが、原作と映画では殺し方が異なる。原作では、配達員を装うジョナサンが、いともたやすく標的の事務所に招き入れられ、荷物を置く場所を探すふりをしながら、標的を一発でしとめる。
映画のジョナサンは同じ手を使おうとするものの、つっけんどんに追い払われる。そこで、建物の裏にまわり、外壁をはうパイプをよじ登っていく。事務所の窓から侵入した彼は、銃でボディガードを倒すが、標的に銃を叩き落とされる。彼らは取っ組み合いを始め、ジョナサンに殴り飛ばされた標的は、勢いあまって窓を突き破り、転落死する。しかもその後で、地上から見上げるカメラが、窓から顔を出したジョナサンをとらえ、その高さが強調される。
映画のジョナサンの手際は、一流の殺し屋らしくない。しかし、登ることと殺しが結びついたそのイメージは、アリゾナでのトレーニング、そしてアイガーでの制裁のスケールを表現するためのひとつの基準となる。
第二部で、ジョナサンはひたすら登りつづける。この部分には制裁という意味での殺しはないが、ジョナサンがマイルズに復讐することが、間接的に登ることと殺しを結びつける。なぜなら、断崖を登るトレーニングも荒野に置き去りにされるマイルズの姿も、空撮によって巨大で過酷な自然と米粒のような人間が対置され、イメージとして双方が結びつくからだ。
そして舞台がアイガーに移ったとき、登ることと殺しの結びつきはさらにスケール・アップする。ということは、この映画では、ジョナサンがアイガーの制裁を引き受ける以前から、すでにそのイメージが観客に植え付けられていたことになる。
■■山と女の結びつき■■
次に山と女の結びつきだ。原作には、そんな表現が随所に散りばめられている。たとえば、チェリーという処女の娘がジョナサンにまとわりつき、彼女の存在が処女峰としてのアイガー北壁と対比的に描かれる。こうした結びつきは小説の細部にまで反映されている。アリゾナでのトレーニングの件には、こんな描写がある「彼はいつでもハーケンとエキスパンション・ボルトのあいだに微妙な、しかし重大な一線を引いていた。ハーケンを使っての岩壁登攀には誘惑的な要素があったが、ドリルとボルトを使うことには強姦の感じがまつわりついているからだった」
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