イーストウッドの『真夜中のサバナ』に登場する女祈祷師は、「死者と語り合わなければ、生者を理解できない」と語るが、一般社会ではそんな言葉はあっさり受け入れられるものではない。だから境界に立つ者はしばしば孤立を余儀なくされる。
この映画では、死者の声を求めることと届けることの孤独と痛みが描き出される。ジョージはなぜ自分の霊能力を呪いとみなすのか。世の中には死者のことを忘れたいと思う人間もいる。ところが彼は、相手に触れるだけでその忘れようとしているものが見えてしまう。そうなると自然に人と愛し合うこともできない。
もう一度兄と話すために霊能者を訪ね歩くマーカス少年が、偽者ばかりにあたってしまうのも致し方ない。霊能力は必ずしもありがたいものではなく、その苦痛に耐えられなければ霊能者の看板を出すことなどできないからだ。一方、自分の体験を受け入れようとするマリーも、大きな犠牲を払うことになる。彼女は死後の世界に関する本を書くために、キャスターの座も恋人も失ってしまう。
イーストウッドにとって重要なのが、死後の世界の真偽などではないことは、この三者の関係から読み取ることができる。マーカス少年は、霊能力があるわけではないし、臨死体験をしたわけでもないが、ジョージやマリーと対等な存在として扱われている。つまり、深い孤独と痛みを抱えた人間はみな何らかの媒介者になり得るということなのだ。 |