ニック・カサヴェテスには監督として特別な魅力を感じる。特別というのは、監督としてのスタイルや美学といったこと以前に、まず何よりもその作品に息づく彼の透徹した理念といえるものに深い共感を覚えるということだ。
ニックの理念や世界については、彼の父親ジョン・カサヴェテスの存在を抜きにしては語れない。ニックの初監督作品『ミルドレッド』のプレス資料には、彼のこんな言葉が紹介されている。「ジョンは私に本質的なことを教えてくれたのです。他人の言いなりにならず、自分自身を守り抜く。自由というものは、日々闘って勝ち取るものだ。今日、私たちは個人によって形作られている世界に生きていかなければならないのに、「大衆」であることを押しつけられています。一人一人の違いが大切だというのに…」。
この言葉は短いが、そこにはとても深い意味が込められているように思う。アメリカでは50年代以降の郊外化/大量消費社会のなかで、画一化された家族の理想像が作りあげられ、人々の心に植え付けられていった。ジョンは彼の作品を通して、そんな作られた理想像を剥ぎ取り、あるいは理想像から排除された者たちを凝視することによって、いかんともしがたい孤独に苛まれ、無防備で不安定な人間の存在を徹底的に掘り下げた。
しかしながらニックは、父親と同じように現実を掘り下げようとはしない。なぜなら、大袈裟にいえば彼はジョンが描きだすそんな世界を当たり前のものとして成長し、身体に染みついているからだ。彼はそんな現実をあっさりと受け入れたところから出発し、未来を見つめ、それでも生きていかなければならない人間に対する彼の理念を描こうとする。
それだけに彼の映画は、登場人物に対する優しい眼差しに満ちたリアリズム風のドラマを、あまりにも単純に受け入れてしまうとその魅力が半減しかねない。たとえば『ミルドレッド』について、主人公ミルドレッドがどこかに旅立つ結末が唐突であり、まとまりに欠けるとか中途半端といった意見を耳にしたことがあるが、それはこのリアリズムを基準に物語をたどるからだろう。
この主人公は平穏な郊外生活に埋没した未亡人で、成り行きで預かった隣人の子供と絆を築くが、その子供が戻るべき場所に戻ったとき、その幸福な時間が他人から与えられたものであることを思い知る。そして自分の息子夫婦や娘との関係にしても実質は同じであることに気づく。それゆえに彼女は、自分に想いをよせる男の気持ちも受け入れるわけにはいかない。すべてが受け身で、与えられることになってしまうからだ。彼女はまず何よりも自分を取り戻さない限り、本当の意味で何かを受け入れることはできない。だからすべてを封印し旅立たなければならない。そこにニックの理念がある。
筆者はこの結末を見て、社会学者W・H・ホワイトが50年代の郊外化を検証し、個人主義の重要性を再認識しようとする「組織のなかの人間」の結びの言葉を思いだした。「組織によって提供される精神の平和は、一つの屈服であり、それがどんなに恩恵的に提供されようと、屈服でありことに変わりはないのである。それが問題なのだ」。この言葉は、先に引用したニックの言葉と共鳴し、彼の理念がより鮮明になることだろう。
ニックにとって第2作となる『シーズ・ソー・ラヴリー』は、そんな彼の理念とそれに深い信頼をよせる俳優たちなしには成り立たない映画であると思う。これは、ジョンが映画化を果たせずに残した脚本をニックが映画化した作品で、その脚本にはジョンの世界が非常に大胆なかたちで凝縮されている。物語はふたつのパートからなり、その双方にジョンの対極にある世界が反映され、最後に登場人物たちを通してふたつの世界が交錯することになるのだ。 |