「広場の反対側から奇妙な姿が近づいてきた。老人で、白い八字ひげをたくわえ、いい加減に巻いた傘をもっている。コートのかわりに緑がかった、色の褪せたケープを着て、何年も前は黒だったと思われる灰色の山高帽をかぶっている。ケープの男はベンチをめざして歩いてきて、なにか挨拶の言葉をぶつぶつ言いながら、ファビアンの横に腰を下ろし、仰々しく咳をして、傘で砂にいくつもの輪を描いた」
彼は発明家だが、その発明が多くの人々を苦しめることになってしまったらしい。「私は平和な機械を発明したのだが、それが大砲だったことに気づかなかった。不変資本は休むことなく成長し、企業の生産性は増大したけれども、君、雇用されてる労働者の数が減少した。私の機械が大砲だったんだ。全軍の労働力を戦力外にしてしまった。何十万人もの生存権の要求を粉砕してしまった」
彼は発明家をやめ、すべてを投げ出す。「私は家族に禁治産の宣言をされた。お金をどんどん人にやってしまうようになり、もう機械とかかわりをもつつもりがないと宣言したので、私のことが気にくわなかったんだな。それから私は家出した。家族は食うには困らない。シュタンベルク湖のそばの私の家に住んでいて、私は半年前から行方不明なんだ。先週、新聞で読んだのだが、私の娘が子供を生んだ。これで私もおじいちゃんになったわけだがね。今はベルリンを浮浪者みたいにうろついておる」
ファビアンは自分の住所をメモして老人に渡し、困ったときには家に来るように伝える。その言葉が頭から離れなくなった老人は、さっそくその晩ファビアンのところにやってきて、泊まることになる。
ドミニク・グラフ監督はプレスに収められたインタビューで、発明家の老人を切り捨てたことにも触れている。
「彼(コンスタンティン・リーブ)の脚色は登場人物を綿密に描く一方、本筋とは関係ないエピソードや何人かの登場人物は省略していました。省略していたのは発明家のキャラクターなど、僕から見ても過度に暗喩的だと思われたような人物です。僕は、これはファビアンとコルネリアのラブストーリーにできると直感しました。街路やカフェを舞台にした、エピソードの集積からなるラブストーリー。そしてそれをめぐる時代性を、構造化を排した手法で捉えようと思ったのです」
筆者には、発明家の老人の存在は、原作において重要なパズルのひとつのように思える。主人公ファビアンは、物語のなかにまずなによりも”観察者”として存在している。そして老人もこのように語っている。「今は、いろんな駅で何時間もすわって、旅立つ人や、到着した人や、見送りの人をながめている。じつにおもしろいぞ。そうやってすわっていると、生きていることがうれしくなる」
原作にも映画にも、レストランでコルネリアと食事をしようとしているファビアンが、あるホームレスの男がウェイターに追い払われようとしているのに気づき、あたかも男が知り合いであるかのように自分たちの席に強引に招く、というエピソードが描かれている。原作では、それが発明家の老人との関係にも重なり、繋がりを持つが、映画ではこのエピソードだけが描かれるので、完全にファビアンの青臭い衝動的な行動のように見えてしまう。
原作では、ファビアンがコルネリアと一緒にいるときに、発明家の老人が訪ねてきて、彼らの会話から、ファビアンが解雇されたことをコルネリアよりも先に老人が知っていたことが、少し気まずい空気を生む。原作のファビアンは、コルネリアに恋をしていても、それ一辺倒ではなく、老人やホームレスとのやりとりに複雑な感情が表れている。
映画では、解雇されたファビアンは、残り少ない所持金の一部で、コルネリアのためにワンピースを購入し、それをベッドの下に隠しておく。他にも、ファビアンとコルネリアが裕福なラブーデの実家を訪れて、ラブーデから射撃の手ほどきを受けたり、3人で池に行って泳ぐ(これはラストの伏線にもなっている)といった、原作にはなかった(気がする)エピソードに時間が割かれている。
ラブストーリーを強調すれば物語はより受け入れられやすくなるのかもしれないが、”観察者”として存在するファビアンの孤独や苦悩の表現は、原作よりも希薄になってしまっているように思える。 |