さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について
Fabian - Going to the Dogs


2021年/ドイツ/ドイツ語/カラー/178分/スタンダード
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(初出:)

 

 

児童文学作家エーリヒ・ケストナー唯一の大人向け長編小説の映画化
ファビアンとコルネリアのラブストーリーを中心に据える脚色に...?

 

[Introduction] 時代は1931年のベルリン。狂騒と頽廃の20年代から出口のない不況へ、人々の心に生まれた空虚な隙間に入り込むように、ひたひたとナチスの足音が聞こえてくる。どこか現代にも重なる時代、作家を志してベルリンにやってきたファビアンはどこへ行くべきか惑い、立ち尽くす。コルネリアとの恋。ただ一人の「親友」ラブーデの破滅。コルネリアは女優を目指しファビアンの元を離れるが……。

 原作は「飛ぶ教室」などで知られる児童文学の大家エーリヒ・ケストナー、唯一の大人向け長編小説にして最高傑作の「ファビアン あるモラリストの物語」である。刺激的にカリカチュアされた映像のコラージュなどを縦横無尽に駆使して原作小説を映画化したのは本邦初公開の監督ドミニク・グラフ『ある画家の数奇な運命』でも共演したドイツ映画界のトップスター、トム・シリングザスキア・ローゼンダールが主演している。ベルリン国際映画祭で絶賛され、ドイツ映画賞で最多10部門のノミネートに輝いた。(プレス参照)

[Story] ベルリン、1931年。32歳のファビアンは、作家を志してドレスデンから首都ベルリンへやってきたものの、日中はタバコ会社のコピーライターとして働き、日が暮れると裕福な親友ラブーデと、夜な夜な芸術家たちの溜まり場や売春宿が立ち並ぶ界隈をさまよい歩くばかり。ベルリンは「欧州の没落」に溢れている。

 そんなある日、ファビアンは女優を夢見るコルネリアと出会う。彼女は25歳。偶然にもファビアンと同じ下宿屋に越してきたばかりで、今は映画会社で著作権を扱う契約部門で働いていた。作家を志すファビアンと、女優を夢見るコルネリア、ふたりは瞬く間に恋に落ちた。

 だが、恋を手に入れたものの、ファビアンは仕事をクビになった。戦争、インフレ、失業。国民の不平不満で社会は不安定になり、不寛容になり、バランスを失い始める。

[以下、原作の世界観にこだわったレビューになります]

 エーリヒ・ケストナーの長編小説『ファビアン あるモラリストの物語』を映画化するにあたって、そこに盛り込まれたエピソードや登場するキャラクターを削らなければならないのはよくわかるが、発明家の老人の存在が切り捨てられていたのは残念だった。個人的には、原作に登場するキャラクターのなかでも、不思議と印象に残る人物のひとりだった。

 会社を解雇された主人公ファビアンは、クロイツベルクの高台に上り、ベンチに座っているときに、この発明家の老人と出会う。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   ドミニク・グラフ
Dominik Graf
脚本 コンスタンティン・リーブ
Constantin Lieb
原作 エーリヒ・ケストナー
Erich Kastner
撮影 ハンノ・レンツ
Hanno Lentz
編集 クラウディア・ヴォルシュト
Claudia Wolscht
音楽 スヴェン・ロッセンバッハ、フロリアン・フォン・フォルクセム
Sven Rossenbach, Florian van Volxem
 
◆キャスト◆
 
ファビアン   トム・シリング
Tom Schilling
ラブーデ アルブレヒト・シューフ
Albrecht Schuch
コルネリア ザスキア・ローゼンダール
Saskia Rosendahl
ラブーデの父 ミヒャエル・ヴィッテンボルン
Michael Wittenborn
ファビアンの母 ペトラ・カルクチュケ
Petra Kalkutschke
ファビアンの父 エルマー・グートマン
Elmar Gutmann
マーカルト監督 アリョーシャ・シュターデルマン
Aljoscha Stadelmann
イレーネ・モル メレット・ベッカー
Meret Becker
-
(配給:ムヴィオラ)
 

「広場の反対側から奇妙な姿が近づいてきた。老人で、白い八字ひげをたくわえ、いい加減に巻いた傘をもっている。コートのかわりに緑がかった、色の褪せたケープを着て、何年も前は黒だったと思われる灰色の山高帽をかぶっている。ケープの男はベンチをめざして歩いてきて、なにか挨拶の言葉をぶつぶつ言いながら、ファビアンの横に腰を下ろし、仰々しく咳をして、傘で砂にいくつもの輪を描いた」

 彼は発明家だが、その発明が多くの人々を苦しめることになってしまったらしい。「私は平和な機械を発明したのだが、それが大砲だったことに気づかなかった。不変資本は休むことなく成長し、企業の生産性は増大したけれども、君、雇用されてる労働者の数が減少した。私の機械が大砲だったんだ。全軍の労働力を戦力外にしてしまった。何十万人もの生存権の要求を粉砕してしまった」

 彼は発明家をやめ、すべてを投げ出す。「私は家族に禁治産の宣言をされた。お金をどんどん人にやってしまうようになり、もう機械とかかわりをもつつもりがないと宣言したので、私のことが気にくわなかったんだな。それから私は家出した。家族は食うには困らない。シュタンベルク湖のそばの私の家に住んでいて、私は半年前から行方不明なんだ。先週、新聞で読んだのだが、私の娘が子供を生んだ。これで私もおじいちゃんになったわけだがね。今はベルリンを浮浪者みたいにうろついておる」

 ファビアンは自分の住所をメモして老人に渡し、困ったときには家に来るように伝える。その言葉が頭から離れなくなった老人は、さっそくその晩ファビアンのところにやってきて、泊まることになる。

 ドミニク・グラフ監督はプレスに収められたインタビューで、発明家の老人を切り捨てたことにも触れている。

「彼(コンスタンティン・リーブ)の脚色は登場人物を綿密に描く一方、本筋とは関係ないエピソードや何人かの登場人物は省略していました。省略していたのは発明家のキャラクターなど、僕から見ても過度に暗喩的だと思われたような人物です。僕は、これはファビアンとコルネリアのラブストーリーにできると直感しました。街路やカフェを舞台にした、エピソードの集積からなるラブストーリー。そしてそれをめぐる時代性を、構造化を排した手法で捉えようと思ったのです」

 筆者には、発明家の老人の存在は、原作において重要なパズルのひとつのように思える。主人公ファビアンは、物語のなかにまずなによりも”観察者”として存在している。そして老人もこのように語っている。「今は、いろんな駅で何時間もすわって、旅立つ人や、到着した人や、見送りの人をながめている。じつにおもしろいぞ。そうやってすわっていると、生きていることがうれしくなる」

 原作にも映画にも、レストランでコルネリアと食事をしようとしているファビアンが、あるホームレスの男がウェイターに追い払われようとしているのに気づき、あたかも男が知り合いであるかのように自分たちの席に強引に招く、というエピソードが描かれている。原作では、それが発明家の老人との関係にも重なり、繋がりを持つが、映画ではこのエピソードだけが描かれるので、完全にファビアンの青臭い衝動的な行動のように見えてしまう。

 原作では、ファビアンがコルネリアと一緒にいるときに、発明家の老人が訪ねてきて、彼らの会話から、ファビアンが解雇されたことをコルネリアよりも先に老人が知っていたことが、少し気まずい空気を生む。原作のファビアンは、コルネリアに恋をしていても、それ一辺倒ではなく、老人やホームレスとのやりとりに複雑な感情が表れている。

 映画では、解雇されたファビアンは、残り少ない所持金の一部で、コルネリアのためにワンピースを購入し、それをベッドの下に隠しておく。他にも、ファビアンとコルネリアが裕福なラブーデの実家を訪れて、ラブーデから射撃の手ほどきを受けたり、3人で池に行って泳ぐ(これはラストの伏線にもなっている)といった、原作にはなかった(気がする)エピソードに時間が割かれている。

 ラブストーリーを強調すれば物語はより受け入れられやすくなるのかもしれないが、”観察者”として存在するファビアンの孤独や苦悩の表現は、原作よりも希薄になってしまっているように思える。

《参照/引用文献》
『ファビアン あるモラリストの物語』 エーリヒ・ケストナー●
丘沢静也訳(みすず書房、2014年)

(upload:2022/06/05)
 
 
《関連リンク》
フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク
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