もちろんそれらは重要な要素ではあるが、筆者が注目したいのは、デビュー作から新作が完成するまで8年もかかっていることだ。実はショートランドは、デビュー作で成功を収めたあとメディアに注目されることに疲れ、映画作りから遠ざかり、家族に目を向けていた。しかし彼女にとってそんな生活は、創作と無関係ではなかった。
彼女の夫は、『Jewboy』や『The Tall Man』といった劇映画やドキュメンタリーで、ゲイやユダヤ人、アボリジニといったアウトサイダーの立場から現実を掘り下げる映像作家トニー・クラヴィッツだ。
ショートランド自身も、以前からアボリジニのための教育施設で教師を務めたり、最近ではオーストラリアが実際には多民族社会になっているにもかかわらず、白人社会であるかのような幻想がテレビなどで流通していることを批判するなど、共通する関心を持っている。そんな夫婦はしばらく母国を離れて南アフリカで過ごし、ボランティア活動に参加し、二人の子供を養子にした(詳しいことはわからないが、クラヴィッツの一族はベルリンを離れたあと、南アで暮らした時期があったようだ)。
そして昨年、それぞれにクリストス・ツィオルカスの同名小説を映画化した『Dead Europe』と『さよなら、アドルフ』という監督作で注目を集めることになった。
■■権力にいかに向き合うか■■
ショートランドのこの新作には、彼女が培ってきた多文化主義的ともいえる世界観が凝縮されている。原作の『暗闇のなかで』には戦中、戦後、現代を背景にした三つの物語が収められているが、彼女が最初に映画化を切望したのは現代を背景に、三十歳の教師が武装親衛隊だった祖父の足跡をたどろうとする最後の物語だった。
だから少女のイニシエーションが不可欠であったわけではない。そして妥協して二番目の「ローレ」を選択したわけでもない。彼女は少女の物語に自分の世界観を反映する可能性を見出した。
ドイツ語で撮られたドラマはリアルなだけではない。ローレの年齢は12歳から14歳に変更され、肉体や性的な要素が強調されている。さらに彼女とユダヤ人のトーマスは、原作にはない重い罪を犯す。そんな脚色によってローレとトーマスは、時代や状況に縛られない象徴的な存在にもなる。
私たちは最後にふたりが、まるで鏡に映る自分を見るように似た者であったことに気づく。彼らは自分を隠し、偽らなければ生き延びられないような状況のなかで、自分が何者なのかもわからなくなっている。ショートランドは、そんなふたりが見つめ合い、触れ合うことでなにを感知するのかを見極めようとする。
そこで重要になるのが権力の表現だ。この映画では、ふたりの老女が権力を象徴している。現実を受け入れない彼女たちは、威厳と恫喝で子供たちを掌握しようとする。
ローレが最初にそんな権力と向き合ったとき、彼女は怯えて逃げ出すが、最後に同じ状況が再現されたときには、本能を剥き出しにするようにある行動をとる。彼女を突き動かすのは、トーマスとの触れ合いを通して感知されたなにかだといえる。この映画が時代を超えて現代に強く訴えかけてくるのは、そんな象徴的な表現が埋め込まれているからに他ならない。 |