女優だけでなく監督としても活躍するニコレッテ・クレビッツが手がけたドイツ映画『ワイルド わたしの中の獣』では、ひとりの女性とオオカミの関係が鋭く掘り下げられていく。
自宅と職場を往復する単調な生活を送るアニアは、ある日、マンションの前に広がる林で一頭のオオカミを目にする。その存在が頭から離れなくなった彼女は、獲物を追い込む巻狩りでオオカミを捕獲し、自宅に運び込む。彼女は性的な欲望を抱いているようだが、人間が想定する枠組みにオオカミが収まるはずもない。やがて彼女は野生に目覚めていく。
では、野生に目覚めるとはどういうことなのか。この映画を観ながら筆者が思い出していたのは、哲学者のマーク・ローランズが書いた『哲学者とオオカミ』のことだ。本書では、オオカミと暮らした経験を通して、人間であることの意味が掘り下げられる。
ローランズは、サルを人間が持つ傾向のメタファーとして使う。「サルとは、生きることの本質を、公算性を評価し、可能性を計算して、結果を自分につごうのよいように使うプロセスと見なす傾向の具現化だ」。だからこそサルは、知能を発達させ、文明化することができた。そんなサルとオオカミはどこが違うのか。
「オオカミはそれぞれの瞬間をそのままに受け取る。これこそが、わたしたちサルがとてもむずかしいと感じることだ。わたしたちにとっては、それぞれの瞬間は無限に前後に移動している。それぞれの瞬間の意義は、他の瞬間との関係によって決まるし、瞬間の内容は、これら他の瞬間によって救いようがないほど汚されている。わたしたちは時間の動物だが、オオカミは瞬間の動物だ」
主人公のアニアは、オオカミと暮らすために様々な準備をする。狩猟法を調べ、たまたま出会った外国人労働者たちに手伝わせて林を囲む幕を作り、自宅の壁をくり抜いて覗き穴にする。それはまさに時間の動物がやることだ。しかし、捕獲したオオカミに翻弄され、社会生活が破綻していくに従って、オオカミとの距離は縮まっていく。映画の終盤は、時間に囚われた人間の目から見れば悲惨な状況といえるが、そこで彼女は汚されていない純粋な“瞬間”を見出すことになる。 |