ジェームズ・アイヴォリーが強い関心を持ち、その作品の映画化をもくろむ作家には共通点がある。ヘンリー・ジェイムズもE・M・フォスターもカズオ・イシグロも、それぞれに独自の体験から国境を超えた国際的な視点を培い、異国や異文化のなかを彷徨う人物、あるいは、国家や階層、ジェンダーなどをめぐる境界に立たされる人物の意識を掘り下げてきた。
『ママがプールを洗う日』や『うるう年の恋人たち』、『ウィークエンド』といった作品で知られるピーター・キャメロンは明らかにそういう作家ではない。だが、この映画の原作である『最終目的地』は例外といえる。だからこそ、アイヴォリーもこの作品に惹かれたのだろう。
映画『最終目的地』の主な舞台になるのは南米ウルグアイの辺境の地だ。朽ちかけた屋敷に、自ら命を絶った作家ユルス・グントの妻キャロライン、ユルスの愛人だったアーデンと小さな娘、ユルスの兄アダムとそのパートナーのピートが暮らしている。そこに突然アメリカから大学教員の青年オマーがやって来る。彼の目的は、ユルスの伝記執筆の公認を得ることだった。
この映画の主人公はみな故郷を喪失したディアスポラだ。屋敷に暮らす人々は、それぞれの事情や巡り会わせでドイツやアメリカ、イギリス、日本を離れ、この辺境の地で暮らすことになった。そしてオマーもまた、イラン系のアメリカ人である。まさに彼らは、異国や異文化のなかに身を置いている。
それに加えてこの物語の場合には、死者が登場人物たちを結びつけていくところが興味深い。著書を一冊だけ残して自殺した作家ユルスが、伝記執筆の公認を得たいオマーとユルスの遺言執行者たちを出会わせる。
作家の未亡人、愛人とその娘、作家の兄とそのパートナーは、辺境の地で作家の不在という空白に囚われ、時間が止まってしまったような空間を生きている。しかし、大学教員が泥濘に足をとられるエピソードが示唆するように、彼もまた最初から自覚のないままに身動きがとれなくなっている。
このドラマに劇的といえる展開はほとんど見当たらないが、それでも私たちを引き込んでしまうのは、アイヴォリーの新たな一面とますます磨きがかかった話術が融合しているからだろう。
新たな一面は、たとえば音楽に表れている。アイヴォリー作品の音楽は、前作『上海の伯爵夫人』までリチャード・ロビンスが手がけてきたが、この新作ではその導入部で特徴的なマリンバの響きを耳にした瞬間から異なる雰囲気が広がるのを感じる。音楽を手がけているのは、『モーターサイクル・ダイアリーズ』でウルグアイ人として初めてアカデミー賞主題歌賞を受賞したホルヘ・ドレクスレルだ。 |