もしこの映画が、まず何よりも事実に忠実であろうとする作品であるならば、われわれはその物語に感動を覚えると同時に、時代がいかに変わってしまったのかを痛感させられていることだろう。グローバリゼーションによって外部が失われつつある時代に、このように純粋に世界を発見することはもはや不可能に近い。そして、エルネストがやがて身を投じる革命の時代ももはや過去のものとなりつつあるからだ。
しかし、サレス監督は、事実に忠実であることを優先しているわけではない。先述した「The
Guardian Interviews」には、「2003〜4年の南米の現実は、エルネスト・ゲバラが本に描いた現実ととてもよく似ている」という発言もある。つまり彼は、エルネストの物語を歴史の呪縛から解き放ち、現代との隔たりを消し去ろうとするのだ。
この映画では、エルネストとアルベルトの南米縦断の記録が独自の視点から読み直され、原作にはない物語の流れが生みだされている。その流れの手がかりとなるのは、チチーナがエルネストに渡す15ドルだ。この15ドルのエピソードは、原作のひとつである『モーターサイクル南米旅行日記』には見当たらないが、映画ではエルネストの内面の変化と深く結びついている。アルベルトは、エルネストが寝込んだり、バイクが故障したりするたびに、15ドルを使おうと持ちかける。それは、エルネストが15ドルを何に使うのかを際立たせる役割を果たす。
その15ドルの行方は、船旅のさなかに明らかにされるが、そこでインディオの夫婦と15ドルの関係が重要になってくる。エルネストはなぜ彼らにそれを渡したのか。決して彼らの悲惨な境遇に同情したからだけではない。インディオの夫婦は、エルネストたちが旅する理由を知って、思わず顔を見合わせる。地上げ屋によって祖父の代から引き継いできた土地を追われ、危険な鉱山で働くことを余儀なくされている夫婦には、放浪など考えられないことなのだ(原作には、「あてもなくさまよい歩いている僕らの寄生生活に対する軽蔑」という表現がある)。エルネストは、そんな夫婦に対して、ただ放浪し、15ドルという逃げ道を持っている自分を心のなかで恥じている。だから15ドルを彼らに渡すのだが、もちろんそれだけで彼の気持ちが治まるわけではない。
インディオの夫婦と別れたエルネストは、世界から見離され、虐げられた人々を見つめるようになる。そして、過去に実在したエルネストは、そんな現実に対する答としてやがて革命家としての道を歩むことになるわけだが、この映画の彼は、ドラマのなかでひとつの答を出す。それは、アマゾン川の急流を泳いで渡るということだ。彼は、人と人を隔てる壁を越えるという明確な目的を持ち、逃げ道のない状況に身を投じる。
サレス監督は、チチーナが属する上流階級の世界から旅立ったエルネストが、命懸けで急流を乗り切り、ハンセン病患者のもとに至るという象徴的な流れを作り、物語を完結させることによって、歴史を越え、現代に訴えかける神話的な世界を作り上げているのだ。 |