98年のベルリン映画祭でグランプリにあたる金熊賞を受賞した「セントラル・ステーション」は、実に素晴らしい作品だった。主人公は、リオ・デ・ジャネイロの中央駅で、読み書きのできない人々を相手に代筆と投函を請け負っている元教師の女ドーラ、そして母親を交通事故で失い、顔も知らない父親を探す9歳の少年ジョズエのふたり。
彼らは、ジョズエの母親がドーラの客だったことから縁ができ、
紆余曲折を経て北部の田舎町にいるはずの少年の父親を探す旅に出る。感傷に満ちたロード・ムーヴィーを想像される方もあるかと思うが、すでにドキュメンタリーの分野で高く評価されている監督サレスが、ブラジル社会に向ける眼差しはそんなに甘いものではない。
ブラジルでは、産業、経済の中心である南部と開発が遅れ、貧困にあえぐ北部の農村地帯の格差が深刻な問題を生んでいる。北部で旱魃などの被害が出るたびに、生活に窮する人々はリオやサンパウロなどの大都会に行けば何とかなると思い、続々と南部に移住してスラムを形成する。失業者は増大し、治安は悪化し、人間は荒んでいく。
ブラジル経済は21世紀の世界の食料供給基地として農業生産に期待を寄せているが、北部の労働力は不足していく。
この映画の主人公ドーラは、そんな悪循環のなかで生計を立てている。本来南部地域は教育も普及し、識字率も低くないはずだが、彼女は絶望を背負って駅を行き交うそうした移住者たちを相手に代筆業を営んでいるのだから。そして彼女は、移住者たちの言葉に滲む苦悩や憎しみに疲れ、投函すべき手紙を気分次第で処分している。
またこの映画には、駅でラジオを盗んだ男が釈明の余地もなくその場で射殺される場面がある。数年前、リオで警察官が8人ものストリート・キッズを射殺して物議を醸したことがあった。そのとき世界各国から警察官の行為に非難の声が上がったが、地元の人々のなかではそれを支持する声が少なくなかった。映画のこの場面でも射殺事件は当然のことのように駅の喧騒に呑み込まれていく。
そして、孤独な少年に救いの手を差しのべるかに見えたドーラは、彼を養子縁組斡旋の看板の裏で臓器の闇取引をしているブローカーに売り飛ばし、その金で憧れのテレビを買う。間違いなくとんでもない行為ではあるが、ストリート・キッズとなった移住者の二世たちがゴミのように射殺される苛酷な世界のなかでは、
それも日常なのかと思い込んでしまいそうな生々しいリアリティがそこにはある。
ふたりの旅立ちまでには、人間性と命を懸けたそんな重い手続きがあり、それが彼らの旅の意味を奥深いものにしていく。彼らは、南に向かう移住者たちと逆のルートをたどり、大都会リオからひたすら北を目指して進んでいく。それは近代化が急速に進むブラジルから伝統が息づくブラジルへの旅であり、ドーラにとっては必ずしも心地よいものではない。
信仰や母性、恋愛感情と無縁に生きてきた彼女は、巡礼の一団や伝道師でもあるトラック運転手など、旅先で出会う人々の寛容さや愛情に戸惑わざるをえない。彼女の代筆業が、そうした北と南の人々を繋ぐかけがえのないパイプの役割を果たしていたという事実が、心に重くのしかかってくるからだ。
少年はそんな彼女の心を開き、彼女は少年の母親から託された手紙を自分の手で届ける。そのとき、ふたりの旅は、現実であると同時にもうひとつのブラジルを探す神話的な物語にもなっていたことに気づくのである。 |