ウォルター・サレス監督の『セントラル・ステーション』(98)では、少年が老女とともに父親を探す旅が、リオの苛酷な現実のなかで失われたもうひとつのブラジルを探す神話的な旅にもなる。サレスは最近の「Guardian」のインタビューで、このように語っている。「ポルトガル語では、父(pai)と国(pais)を表す言葉はほとんど同じです。だから、父親を探すことは、国を探すことでもあるのです」
『ビハインド・ザ・サン』(01)では、彼の映画が内包するそんな神話性がより明確になる。この映画の原作は、神話や民間伝承をモチーフにした作風で知られるアルバニアの作家イスマイル・カダレの『砕かれた四月』。二十世紀初頭という時代設定をそのままに、舞台をブラジルに置き換えた映画でまず注目すべきなのは、形骸化した掟と主人公トーニョの関係だ。
代々守られてきた掟に従い、兄の敵を討った彼は、次の満月を過ぎれば敵対する家族から命を狙われる身となる。だが彼は、生きられる時間が区切られたことで、初めて自分や世界が見えるようになる。掟がなければ、自分の人生が、サトウキビの圧搾機を動かすために同じ場所を回りつづける牛と何ら変わりがないことさえ気づかなかったのだ。
サレスの関心は、そんな覚醒にあるが、映画には物語の語り手となる彼の弟が登場し、原作とは異なる神話的な世界が切り拓かれる。名前も持たないその弟が語る物語は、現実を象徴的な世界に変えていく。一家が暮らす土地は“魂の川”と呼ばれるが、そこに川はなく、魂だけが残されている。砂埃が舞う褐色の風景は、形骸化した掟を象徴している。
弟は、道に迷った曲芸師の男女から、絵本と川の魚であるパクーという名前を与えられる。絵本に触発された彼は、人魚の物語を語りだす。それはたわいない物語だが、トーニョの目には、鮮やかな曲芸で青空に溶け込むような娘の姿が人魚のように映る。
こうしてパクーの物語とトーニョの宿命は錯綜し、最後に風景を褐色から水色に変える。それは、未知の世界に通じる魂の川を意味しているのだ。 |