オン・ザ・ロード (レビュー02)
On the Road  On the Road
(2012) on IMDb


2012年/フランス=ブラジル/カラー/139分/スコープサイズ/ドルビーデジタルDTS
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(初出:『オン・ザ・ロード』劇場用パンフレット)

 

 

「彼」の内面が浮き彫りにされた
映画『オン・ザ・ロード』の世界

 

 ウォルター・サレス監督の『オン・ザ・ロード』は、1947年のニューヨークから始まる。1947年とは、アメリカの外交政策立案者だったジョージ・F・ケナンの論文「ソ連の行動の源泉」が発表され、冷戦における封じ込め政策が形作られる時期にあたる。その政策によってアメリカに全体主義的な風潮が広がり、家族や個人にも大きな影響を及ぼした。

 ステファニー・クーンツの『家族という神話:アメリカン・ファミリーの夢と現実』では、それが以下のように表現されている。

冷戦下の心理的不安感が、家庭生活におけるセクシュアリティの強化や商業主義社会に対する不安と混じり合った結果、ある専門家がジョージ・F・ケナンの対ソ封じ込め政策の家庭版と呼ぶ状況を生み出したのである。絶えず警戒を怠らない母親たちと「ノーマルな」家庭とが、国家転覆を企む者への防衛の「最前線」ということになり、反共主義者たちは、ノーマルではない家庭や性行動を国家反逆を目的とした犯罪とみなした。FBIやその他の政府機関が、破壊活動分子の調査という名目で、前例のない国家による個人のプライバシーの侵害を行った

 この映画にも、反共主義者がテレビを通してプロパガンダを行っている様子が描かれている。もちろんそれは主人公たちとも無関係ではない。なぜなら、「ノーマルでない家庭や性行動」は、共産主義者と同様の反逆とみなされていたからだ。あるいは、そこまで疎外されていたからこそ、自由を求める彼らの感性はいっそう研ぎ澄まされ、ビート文学が誕生したともいえる。

 ケルアックが1957年に発表した『オン・ザ・ロード』は、後に“ヒッピーの聖典”となる。それはこの小説がカウンターカルチャーの先陣を切る役割を果たしたからだが、だからといってビートとヒッピーを単純に結びつけることはできない。ジョン・リーランドは『ヒップ』のなかで以下のように書いている。

カウンターカルチャーの大衆的盛り上がりの土台を形成したのち、自分たちなしでもメディア現象が動くようになるのを見て、彼らは舞台を下りた。彼らはビート・「ジェネレーション」とよばれてはいたけれど、ヘッティ・コーエンがかつて述べたところによれば、彼女のリビング・ルームに全員収まってしまうくらいの人数だった。彼らは集団の物語に乗っ取られた、ラディカルな個人主義者たちだったのである」(注:コーエンは、ビートに属した数少ない黒人アミリ・バラカの旧妻)

 この映画には、集団の物語に乗っ取られる前のビートの世界が生き生きと描き出されている。しかもサレス監督は、ラディカルな個人主義者のなかでもケルアックが特異な立場にあり、複雑な内面を抱えていたことを、独自の表現で浮き彫りにしている。

 見逃せないのは、フランスの文豪マルセル・プルーストの『スワン家の方へ』(長大な『失われた時を求めて』の第一篇にあたる)が頻繁に映し出されることだ。ディーンとメリールウはこの本を持ち歩き、時に朗読したりもする。メキシコでサルが赤痢に感染した時、ディーンはこの本を枕元に置いて去っていく。そして最後にサルがタイプライターに向かう時にも、この本がわきに置かれている。


◆スタッフ◆
 
監督   ウォルター・サレス
Walter Salles
脚本 ホセ・リベーラ
Jose Rivera
原作 ジャック・ケルアック
Jack Kerouac
製作総指揮 フランシス・フォード・コッポラ
Francis Ford Coppola
撮影 エリック・ゴーティエ
Eric Gautier
編集 フランソワ・ジェディジエ
Francois Gedigier
音楽 グスターボ・サンタオラヤ
Gustavo Santaolalla
 
◆キャスト◆
 
ディーン・モリアーティ   ギャレット・ヘドランド
Garrett Hedlund
サル・パラダイス サム・ライリー
Sam Riley
メリールウ クリステン・スチュワート
Kristen Stewart
ジェーン エイミー・アダムス
Amy Adams
カーロ・マルクス トム・スターリッジ
Tom Sturridge
エド・ダンケル ダニー・モーガン
Danny Morgan
テリー アリシー・ブラガ
Alice Braga
ギャラテア・ダンケル エリザベス・モス
Elisabeth Moss
カミール キルスティン・ダンスト
Kirsten Dunst
オールド・ブル・リー ヴィゴ・モーテンセン
Viggo Mortensen
-
(配給:ブロードメディア・スタジオ)
 

 こうした強調はなにを意味するのか。『失われた時を求めて』を、自分の才能に疑問を抱く作家が鮮やかに甦る記憶を通して覚醒する物語ととらえるなら、この主人公とサルを重ねていると解釈することができる。しかしそれだけのことであれば、ビートという題材にはそぐわない持って回った表現に過ぎない。

 ここで思い出さなければならないのは、ケルアックがニューイングランドに移ってきたフランス系カナダ人の子として生まれ、フランス語を母語、英語を第二言語として育ったということだろう。この映画で、ディーンやメリールウはプルーストの英訳を読んでいるが、サルにとってはそれが当たり前のこととはいえない。彼は、母親と二人だけの時にはフランス語で会話することもある(ケルアックは執筆に行き詰った時にフランス語で書くこともあった)。つまり、サルはまだ完全に自分の英語を見出せずに、引き裂かれているのだ。

 サルはある種の異邦人であるからこそ、西部出身のディーンをカウボーイと呼び、彼の向こうにフロンティアという神話的な世界を見る。そんな憧れは同時に、二人の違いを際立たせもする。サルの部屋の壁に十字架がかかっているように、カトリックの環境で育った彼は、ディーンやカーロのように性に奔放にはなれない。サレス監督は、そんなサルの引き裂かれるような感覚をすべてプルーストの『スワン家の方へ』に集約し、彼が越えなければならない壁を象徴するものに変えていく。

 この映画の終盤でサルは、その本に挟まった写真に気づき、自分が持っていた写真と合わせる。それは、鮮やかに甦る記憶を起爆剤として彼が壁を乗り越え、自分の英語に覚醒する瞬間を意味している。おそらくブラジル人のサレス監督でなければ、サルの複雑な内面にここまで迫ることはできなかっただろう。

《参照/引用文献》
『家族という神話――アメリカン・ファミリーの夢と現実』 ステファニー・クーンツ●
岡村ひとみ訳(筑摩書房、1998年)
『ヒップ――アメリカにおけるかっこよさの系譜学』 ジョン・リーランド●
篠儀直子+松井領明訳(ブルース・インターアクションズ、2010年)

(upload:2014/03/04)
 
 
《関連リンク》
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