レビューのテキストは準備中ですが、これまでさまざまな記事で参照・引用してきているので、それを少しまとめておきます。
「私がこの本を書いたのは、アメリカの家族の変容とその原因について果てしのない議論が続いているからです。私のねらいは人々が的確な判断を下す妨げをしていると思われる家族の神話を事実と区別することにありました。そうした上で、過去の家庭生活に学びたい点や反面教師としたい点、今日の経済状況や社会のあり方、人口動態を考えると私たちの家庭生活の中に取り入れることはもはや不可能になってしまった点について明らかにしたいと考えました。現代の家族がどのような社会経済状況の中で選択や決断を迫られているかを説明できれば、個人を超えた力によって生み出された状況について誰が悪いと責め合うこともなるなると思ったのです」[ 「日本語版まえがき」より]
本書がアメリカで出版されたのが92年のことで、拙著『サバービアの憂鬱――アメリカン・ファミリーの光と影』が出たのが翌年の93年のことでした。もし自分の本を仕上げる前に本書を読んでいたら、いろいろ引用していただろうと思います。筆者の本の副題が“アメリカン・ファミリーの光と影”で、98年に出た日本語版の副題が“アメリカン・ファミリーの夢と現実”で、よく似ていますが、これは必ずしも偶然ではないでしょう。50年代の幸福な家族のイメージを解体するという狙いに共通点があるからです。
筆者の場合は、まず50年代の広告やホームドラマ「パパは何でも知っている」から一般に浸透している50年代の家族のイメージを抽出し、そのあとで、ホワイトの『組織のなかの人間』やリースマンの『何のための豊かさ』、あるいはリチャード・イエーツの『レボリューショナリー・ロード』といった小説などを通して、現実の家族の姿を炙り出そうとしました。
これに対してクーンツの場合は、まず「ビーバーちゃん」や「オジーとハリエット」という50年代のホームドラマに描かれた家族のイメージをめぐって展開していきます。本書によれば、アメリカの政治の世界で、リベラル派と保守派が家族政策について意見を戦わせるときには、そういうホームドラマに描かれた家族がどれだけ残っているかという議論になるといいます。それは、一家の養い手である父親と専業主婦の母親とその子供たちからなる幸せそうな核家族のことを意味しています。
「リベラル派は、「ビーバーちゃん」タイプの家族は絶滅に向かって減少しつつあり、もはやこの流れをくい止めることは不可能だと証明しない限り、新しい家族の定義や社会政策をうちだすことはできないと考えているようである。一方保守派は、共働き家族とひとり親家庭を優遇する政策によって危機にさらされながら、伝統的家族がいまだ健在であることを示すことができれば、多くの人々に比較的安定した結婚生活や男女の性別役割分業、家庭生活を連想させる一九五〇年代のあの表面的平穏と繁栄を復活させるための政策を立法化できると信じている。つまり、どちらの側にしても、一九五〇年代の家族が今日存在していたならば、現代社会のジレンマはなかったという暗黙の了解の前提に立っているのである」
しかし、50年代のホームドラマに描かれる家族と現実の家族はまったく違っていました。トッド・ヘインズ監督が『エデンより彼方に』で浮き彫りにしたように、家族は人種差別がはびこり、同性愛が病気とみなされる社会のなかで抑圧されていました。そして本書でも、冷戦下の家族が以下のように綴られています。
「冷戦下の心理的不安感が、家庭生活におけるセクシュアリティの強化や商業主義社会に対する不安と混じり合った結果、ある専門家がジョージ・F・ケナンの対ソ封じ込め政策の家庭版と呼ぶ状況を生み出したのである。絶えず警戒を怠らない母親たちと「ノーマルな」家庭とが、国家転覆を企む者への防衛の「最前線」ということになり、反共主義者たちは、ノーマルではない家庭や性行動を国家反逆を目的とした犯罪とみなした。FBIやその他の政府機関が、破壊活動分子の調査という名目で、前例のない国家による個人のプライバシーの侵害を行った」
ゲイリー・ロス監督の『カラー・オブ・ハート』(98)は、両親の離婚によって疎外感に苛まれている主人公の若者が、特別な愛着を持つ50年代のホームドラマ「プレザントヴィル」の世界に入り込んでしまう物語です。彼はそこで幸福なイメージの背後にある現実に目覚めていきます。本書を読んでいると、そんな展開がより興味深くなるのではないでしょうか。
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