デイヴィッドが憧れる50年代の幸福なアメリカン・ファミリーのイメージは、当時の様々な状況が複雑に絡み合うことによって作りあげられている。まず戦後の住宅不足を解消するために連邦政府が住宅政策を優先し、
郊外の一戸建てが安く手に入れられるようになった。テレビという新しい娯楽が急激に普及し、戦時中に発達したテクノロジーが様々な電化製品に応用され、すべてが新しい大量消費時代が到来した。人々は、都市が抱える人種差別、犯罪、過密といった問題、
さらに戦後を覆う冷戦という脅威を忘れ、楽園に逃避したいと思っていた。しかも郊外に転居すれば、大恐慌や戦争の記憶を背負う古い世代の伝統的な価値観に縛られることなく、自由を得ることができた。
アメリカン・ファミリーを形作っているこうした要素を振り返ってまず気づくのは、それがすべて外的な要因であるということだ。ここには戦争で離れ離れになった家族がいつも一緒にいられるというような理想を除けば、家族の内側から生まれ、
未来に向かう目標となるようなヴィジョンが何もない。サバービアとは、白人の中流の人々が、山積みする問題に目をつぶり、過去から逃れるために未来を失い、消費を楽しむための楽園なのだ。外的な要因から作られたということは、人工的であることを意味する。
だから「プレザントヴィル」の世界は完璧であると同時に、この町の図書館の本と同じように中身が何もないのだ。
そんな幸福なアメリカン・ファミリーのイメージは、もはや過去のものと思われるかもしれない。確かに60年代以降、サバービアの画一化された生活に反発した若者たちやウーマンリブのムーブメントが50年代の価値観を大きく揺さ振った。
しかし、80年代の保守的なレーガン政権はこの50年代の価値観を復活させ、再びサバービアが脚光を浴びることになったのだ。『カラー・オブ・ハート』の監督ゲイリー・ロスは明らかにこの80年代を意識してこの映画を作っている。
それは誰もが知っている80年代の映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』とこの映画を対比してみるとよくわかる。この2本の映画からは、共通する展開を通して50年代に対する見事に対照的な視点が浮かび上がってくるのだ。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の主人公は、50年代に紛れ込んだことで変わってしまった現実を苦労してもとに戻し、現代へと帰ってくる。すると、生活に疲れ果てたような家族は、成功を遂げた金持ちに豹変している。
50年代に回帰することによってそれが直接的に80年代に豊かな生活を招き寄せるというこの物語は、アメリカでは当時さかんにレーガン時代の反映だとみなされた。
ゲイリー・ロス監督は『カラー・オブ・ハート』でこの『バック・トゥ〜』の展開を見事に逆手にとる。「プレザントヴィル」の世界に憧れる主人公デイビッドは、まさにレーガン的な50年代回帰を望んでいるといえる。
だから「プレザントヴィル」の世界に紛れ込んだ彼は、その世界に色が付きはじめたとき、最初はもとの世界を維持しようと努力する。それは突き詰めれば『バック・トゥ〜』の主人公と同じ行動をとることを意味している。
しかし、町が色によって二分され、現状維持を望むモノクロ人種が有色人種を差別し、排斥しようとしたとき、主人公の気持ちは次第に変化していく。このモノクロ人種と有色人種の対立は、現実の50年代にサバービアから排除された人種問題も巧みに暗示しているが、
主人公は、光あるところに影があるように人の心にも影の部分があり、影がなく幸福だけが支配する世界が本当は空虚なものであることを理解していくのだ。その結果、彼は50年代の世界を徹底的に塗り替えて現代に帰ってくる。もちろんそこには、
『バック・トゥ〜』のように豹変した家族など待ってはいない。しかし彼は、孤立し生活に疲れている母親にこれまでにない親近感をおぼえる。幸福なアメリカン・ファミリーは作り物の幻影であり、人は足元から自分なりの幸福を作りあげていくしかないのだ。 |