たとえば、先述した『The Fifties』には、テレビが生んだ最初のスターとして、ミルトン・バールの名前があげられているが、彼の運命はそのことをよく物語っている。ヴォードヴィルのコメディアンだったバールは、48年にテレビに登場し、「タイム」と「ニューズウィーク」の表紙を同時に飾るほどのスターになった。そして、このスターをライバル局にとられることを恐れたNBCは、51年にバールとの間に、なんと年収20万ドルの30年契約を結んだという。
ところが、テレビは当初、都市部から普及し、その都市部にはバールのファンがたくさんいたが、テレビがサバービアやスモールタウンに広がっていくと、バールはスターの座から急降下していくことになる。そこで、55年には、NBCは、バールと大幅減俸の新しい契約を結び、他局への出演も許可するのである。また余談ながら、『クイズ・ショウ』のなかで、人気番組"21"を制作していたプロダクションを途中で買収し、後に不正隠蔽のためにチャーリーに圧力をかけるのもNBCである。
それでは、今度は『クイズ・ショウ』の周辺へと話を進めることにしよう。アメリカでは、50年代後半に入って、クイズ番組が爆発的なブームになり、最盛期には一週間に47本も放映されていたという。そして、この先陣をきったのは、55年に放映が始まった"$64,000
Question"という番組である。これは、一回の番組で、解答者が最高8000ドルの賞金を手に入れられ、勝ちつづければ64000ドルの大金に手が届くが、負ければこれまでの獲得賞金をすべて失うというような趣向の番組だった。
視聴者からすれば、こうしたクイズ番組は、誰でも機会が与えられ、リッチになることができるというアメリカン・ドリームを体現していた。しかも、ただ金に群がるのではなく、勝者は豊かな知識の持ち主として尊敬されることになり、もう少し掘り下げるなら、競争のなかで、アメリカ人のアイデンティティを見いだしたり、確認する場ともなっていたといえる。さらに、大金を手にするか無一文になるかという勝負は、勤勉を美徳とするようなかつての価値観から消費を楽しむ時代への変化にマッチしていた。
一方、スポンサーの方も目の色が変わりつつあった。というのも、"The $64、000 Question"のスポンサーとなったレヴロンは、この番組の効果で、売上げが1年で70パーセント増え、株価はたった3か月で12ドルから30ドルに跳ね上がり、化粧品産業の歴史上空前の成功をおさめ、市場を支配することになったからである。
そして、この成功に続けとばかりに登場したのが、『クイズ・ショウ』に描かれる番組"21"なのだ。つまり、この番組には、一般大衆の欲望や期待とスポンサーの貪欲な思惑が満ち満ちていたということになる。
■■時代が求めたインテリのヒーローの真実■■
それでは、こうした背景をふまえて、最初に書いた『クイズ・ショウ』のチャンピオンの交代劇を思いだしていただきたい。映画の観客は、ハービーとチャーリーというふたりの解答者たちが、胸のうちに何を秘めているのか知っていて、彼らとともに圧迫感のある狭苦しいブースに押し込まれたような気分で、やらせに立ち会わされる。観客は、自然に彼らの視点や立場に引きつけられることになる。映画はその後、チャーリーを中心に、
ハービー、そして、不正疑惑の真相解明に乗りだす立法管理委員会の新人調査官リチャード・グッドウィンの3人を中心に展開していく。
当時のクイズ番組には、多かれ少なかれやらせがあったことが後に発覚し、一気に衰退する原因になる。しかし、この"21"の場合には、そのやらせが、たいへんなスターを生みだしてしまった。但し、スター誕生のドラマを仕組んだのは番組だが、それを盛り上げ、チャーリーをスターにしてしまったのは視聴者だといえる。
視聴者が、なぜそれほどまでに熱狂してしまったかといえば、ひとつには、何でも自由に手に入れられる時代に、チャーリーは、彼らが手に入れられないものを持っていたからだ。ヴァン・ドーレン家は、18世紀から続く家柄で、チャーリーの両親、叔父、叔母などはみな著名人だった。しかし、もっと大きかったのは、チャーリーが、コロンビア大学の講師である上に、家族もただ著名なのではなく、詩人、作家、歴史家などの教養人だったことだ。
当時の人々には、マッカーシズムのために知識人が弾圧された暗い記憶があり、スポーツ選手や芸能人よりも、何よりも、インテリのヒーローを求めていた。一方、チャーリー自身も、裏取り引きを求めるプロデューサーから、教育の効果という言葉をだされたとき、弱みを露呈し、不正に加担してしまうのだ。 →2ページへ続く |