アメリカの無垢な時代の終焉
――50年代最大の醜聞を描いた『クイズ・ショウ』とその背景


クイズ・ショウ/Quiz Show――1994年/アメリカ/カラー/133分/ドルビーSR
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 このチャーリーの置かれた状況を見ていて、筆者が思いだすのは、ベテランのコラムニストのカルヴィン・トリリンが、93年に発表した『Remembering Denny』というノンフィクションである。これは、著者トリリンが、91年に旧友のデニーが自殺した記事を目にしたことから、映画『再会の時』のような設定で、デニーの知人たちの証言を交えながら、彼を回想する物語であり、それと同時に、50年代のヒーローが置かれた立場を問いなおす作品にもなっている。

 著者は50年代に、カリフォルニアのハイスクールとイェール大学で、デニーと勉学をともにした仲だった。そのデニーは、ハイスクールで、水泳選手として記録をぬりかえ、明るくさわやかな風貌で"100万ドルの笑顔"として人気を集めた。その後、イェール大学に進み、ローズ奨学生となり、「ライフ」に限りない未来を約束された若者として取り上げられた。当時、デニーがいつかは大統領になると確信していたという著者は、この本のなかで、50年代という時代に、 インテリのヒーローというイメージを背負うことは、ある種、決定的なことであるということを何度も繰り返す。

 デニーの家庭は傍目には幸福そのものに見えたが、実は母親が神経症になったために崩壊し、デニー自身はゲイであったことがしだいに明らかになる。そして、自己のアイデンティティを明確にできなかった彼は、作られたヒーローのイメージに依存し、社会に出てからは、政府機関や大学の講師としてそこそこの活躍をしながらも、最後までそのイメージから逃れることができずに、自分を追い詰めてしまうのだ。

 チャーリー・ヴァン・ドーレンの場合には、このトリリンの語る50年代のヒーローへの期待が、テレビの力によって増幅され、巨大な虚像を作り上げてしまったといえる。一方、彼の内面は、デニーとは対照的に見えるが、この映画ではチャーリーが、常に家の名前がついてまわることでアイデンティティを見いだすことができず、それゆえ、作られたイメージに依存することでスターとなり、家族から独立した存在になろうとすることが巧みに暗示されている。

 そして、このテレビが生んだ最初のインテリのスターは、最終的には、自ら不正を認める証言をし、失墜していくことになる。国民の怒りが、チャーリーばかりに集中し、テレビ局やスポンサーが追求を逃れるという事実は、この映画にも描きだされるように、視聴者こそがドラマを盛り上げたことを逆説的に物語り、何とも皮肉である。



 


 ところで、先にこの映画の後半は、チャーリー、ハービー、そして、調査官グッドウィンを中心に展開すると書いたが、なかでもグッドウィンとチャーリーとの関係の変化には注目すべきものがある。この3人のコントラストは実に印象的で、グッドウィンは、ハービーと似た生い立ちのユダヤ系だが、ハーバード・ロー・スクールを首席で卒業し、政界への野心に燃えるインテリでもある。そんな彼は、最初はチャーリーのことを名家のスノッブな子息だと見ているが、 つきあいを深めるうちに、気さくで誠実な若者であることを知り、逆に、彼に追求の手がのびないように密かに尽力する。

 映画はそれ以上のことは語らないが、ここで、冒頭に書いたケネディがチャーリーに取って代わったというハルバースタムの意見を思いだしてもらいたい。ケネディは、チャーリーが証言をした59年11月からちょうど1年後に大統領に選ばれる。しかも、ニクソンとのテレビ討論会で形勢を逆転したことによる勝利である。そして、グッドウィンはといえば、実は59年にケネディのスピーチ・ライターとして政界入りし、JFKの顧問としてホワイトハウスの人間となるのである。 チャーリーを救おうとしたグッドウィンが、彼に取って代わったともいわれるJFKに協力する。このエピソードは、クイズ・スキャンダルが単なるやらせにとどまらず、時代の流れと深くかかわっていたことを物語っている。

■■メイラーと時代の反逆者としてのヒップスター■■

 『クイズ・ショウ』を観ると、監督レッドフォードが、この事件をいかに深く掘り下げているかわかるが、それは、この題材が彼のテーマとぴったり重なっているからだ。彼は、初監督作品である『普通の人々』について、こんなことを語っている。「見せかけと現実の問題に興味を引かれた。人の目に映る自分自身の姿と、自身の現実とにはかなり差があると思う。自分が大人になり旅をするにつれて、人々が、自分は本当は何者なのかということより、 見せかけの方をもっと気にしていることに気づいた。自分の感情に正直であろうとすれば、人生を随分無駄に過ごしてきたという事実に直面せざるをえないのではないか

 このコメントはそのまま『クイズ・ショウ』に当てはまる。まさにクイズ・スキャンダルは、彼が自分のテーマを掘り下げるのに恰好の題材だったといえる。それだけに、この映画には、50年代に潜む様々な価値観や視点が、驚くべき密度で凝縮されているが、最後にもうひとつ、注目しておきたいところがある。

 この映画で、筆者がとても印象に残ったのは、チャーリーが、公聴会で真実を告白することを父親マークに伝えようとする場面である。そのとき父親は、世間話としてノーマン・メイラーの新しいエッセイの話題を持ちだし、「あいつは、いったい、天才なのか、狂人なのか」といった台詞を口にする。この話題は、その一言で終わるのだが、そのエッセイとは、チャーリーが証言したのと同じ59年11月に出た「ぼく自身のための広告」を指していると思われる。だとすれば、この台詞には、かなりの含みがあることになる。

 なぜなら、それまであくまで文学に固執してきたメイラーは、このエッセイでタイトルが暗示すように、自己をメディアとするような形式で時代に反旗をひるがえした。その前書きには、こんな文章がある。「われわれがもって生まれた種に、日ごとにうそが少しずつ食いこんでくる。新聞記事、テレビのショック・ウェイヴ、映画のセンチメンタルないんちきなどの、社会的通念となっている小さなうそがである。小さなうそではあるが、しかしそれは現実にたいするわれわれの感覚を枯渇させて、ぼくたちを消耗させ、発狂させてしまう

 チャーリーは、父親の口からそんな本の話題がでたところで、あまりにも大きな嘘の事実を告白することになるのである。

 そうなると、このエッセイのなかで、メイラーが、時代の反逆者としてのヒップスターを賛美する文章が深い意味を持ってくることになる。「彼の時代にふさわしく、ヒップスターは目立たぬように身をかくすことによって、順応主義者に仕返ししようとしている。(中略)彼は、すべての人間をそれ自身のイメージにあわせてつくりかえようとしているとしかかんがえられない社会に、仲間いりしないでいることを、第一の目標としているからである

 これは、映画をご覧になれば、おわかりいただけると思うが、実は『クイズ・ショウ』のなかでグッドウィンは、不正の決定的な証拠を、この文章そのもののような男から入手することになる。この男の登場するシーンは、ほんのわずかなものではあるが、それでも彼の視点を通して見ると、この緻密なドラマが巨大なゲームのように見えてくるのである。

 レッドフォードは、この『クイズ・ショウ』で、観客を、あるときは緊張みなぎるブースに押し込み、またあるときはヒップスターの視点で距離を置くことによって、現代にも通じる見せかけと現実の世界に対する覚醒をうながそうとしているのではないだろうか。

《参照/引用文献》
The Fifties●
by David Halberstam 1993
Remembering Denny●
by Calvin Trillin 1993
「ぼく自身のための広告」●
ノーマン・メイラー著 中西英一訳/新潮社/1962年
 
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(upload:2001/08/16)
 
 

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